第十六章 私の騎士
また歩きだしてもイイですか?
月曜日の夕方、下吹越エリカは自宅で、紅茶を飲んでいた。昨日の夕方、母にデパートで買ってもらったイングリッシュ・ブレックファーストだ。
空き巣に入られた金曜日の夜は、柊ケイコと夜遅くまで話していると知らない間に眠ってしまっていた。朝遅くに、起き出したら、弟のマコトが気を効かせて朝ご飯を作ってくれた。いつもは手料理なんか作らないマコトだったから、何だか余計に申し訳ないような、嬉しいような気持ちになった。
ケイコが「似合わないわね」と斬りつけると、照れながらもマコトは「僕だって料理ぐらいしますよ」と珍しくケイコに反抗していた。二人は午前十一時過ぎに仲良く帰っていった。朝帰りの午前様だ。
エリカは難易度の高いマコトの恋愛に、心の中でちょっとだけエールを送った。
マコトからの連絡を受けて、娘のピンチに母親が鹿児島から即日で飛んできてくれた。午後二時には既にエリカの下宿に到着した母親は、到着するなり、保険会社への連絡や、警察との再度のやり取り、大家さんへの連絡などをバリバリとこなしてくれた。エリカは、やっぱり母親は強いなぁ、と尊敬と感謝の念を深めるのだった。
日曜日には、荒らされたものや、盗られたものなどを買い足しに、また、気分転換にと、母親と駅前のデパートにショッピングに行った。今、飲んでいるイングリッシュ・ブレックファーストは、その時に母親が買ってくれたものだ。いつも惹かれるのだが、百グラム当たりの茶葉の値段が微妙に高く、いつも買うのを躊躇っていたブランドの紅茶だった。
母親が「こんな時ぐらい、お母さんに甘えなさい」と言うので、その言葉に甘えて買ってもらった。他にも、冬物のバーゲン期間だったので、服も数着買ってもらった。
夕方から、弟のマコトが合流したので、親子三人で夕食を食べた。お正月に鹿児島で顔を合わせたばっかりだったが、こっちで母親と弟と一緒に食べるご飯は、故郷で食べるご飯とは違う感慨があった。
ちょっと、嬉しくて涙がこぼれそうになったが、未だに空き巣のことで悲しんでいるのだと誤解した母親に「なに、いつまで湿っぽい顔してるの。ほら、元気出しなさい」と背中を叩かれた。「二人が心配してくれて、家族で食べるご飯が嬉しいのだ」なんて、恥ずかしくて言えないから、母の誤解はそのままにして、エリカは「うん」と頷いた。
マコトとはデパートで別れた。母親に「マコトもちゃんと自分で自炊くらいするのよ〜」と言われて、マコトは「ヘーイ」と後ろ手を振っていた。
母親は土曜日の晩、日曜日の晩と二泊して、「お父さんも寂しがるからね」と月曜日のお昼の便で鹿児島へと帰っていった。エリカは、流石に玄関でさよならという訳にも行かないので、母親を空港まで送った。最初は「いいのよ、いいのよ、あんたも色々忙しいだろうから」と言って遠慮していたが、エリカが「お母さん、こっちは土地勘無いでしょう? 空港まで迷ってもいけないし」というと、「じゃあ、案内してもらおうかしら」と母親が折れた。
空港のカフェで母親とランチを食べて、それから手荷物検査場まで母親を見送った。さすがに、飛行機が飛び立つまでは待たなくて良いだろうということで、エリカはそのまま電車に乗って自宅へと戻った。
久しぶりに、家の近くの書店に立ち寄って、コミックスコーナーとライトノベルコーナーを覗いた。好きな少女漫画作家の新刊が「花とゆめ」コミックスから出ていたので買った。
ライトノベルの本棚を見ると、
全て自宅にあるのだが、ついつい、「
――――――――
『やぁめぇれぇ~』
エルフのナターシャはあられもない姿で、吐息にも似た甘い声を漏らす。
ハヤトは後からナターシャの露わになった二つの乳房をつかみ、大切そうに揉みしだく。
『いいじゃないか、ナターシャ。こうすることで、君にも勇者のエネルギーが注入されるんだ!』
ナターシャは少し戸惑い気味な表情を作ると、振り向いてハヤトの表情を伺った。
『そうなのかにゃ?』
ナターシャの白い肌は紅く紅潮していたが、上目遣いにハヤトを伺う視線は、決してハヤトのその行為を嫌がっている風ではなかった。
『ああ、そうなのさ! これは僕たちが力を合わせて魔王を倒すために、必要なことなんだっ!』
『……うん。わかったにゃ! でも、優しくしてほしいにゃ!』
ナターシャは恥ずかしそうに、しかし、元気を取り戻してハヤトに答えた。
『もちろんさ!』
ハヤトは大きく頷くと、より強く、激しく、ナターシャの胸をまさぐった。
――――――――
何だか可笑しくて、エリカはクスリと笑った。
夏の終わりに南雲教授室で発見した原稿の一部だ。それが、そのままこうやって書店の本棚に開架されている。何度読んでも「エロラノベ」だとしか思えない文章だが、エリカはその文章を読んでも、初めて読んだあの時ほどは驚いたり、照れたりはしなくなっていた。まぁ、なんというか、……慣れた。
エリカは未恋川騎士の正体を知っている。
南雲仙太郎、私の教授がこの本を書いた、エロラノベ作家なのだ。それを知って、この本棚の前に立っているのは、多分、自分ひとりなのだと、その事実をあらためて噛み締めた。
家に帰ったら、もう午後四時を過ぎていた。
今から、大学に行こうかとも思ったが、時計を見てやめた。卒業論文のことは気にはなるが、パソコンも無いし、データも無いのでは、どうにもならない。
昨日、夜、ベッドに入った時に卒業論文のことを母親に打ち明けた。盗られたパソコンに全てのデータが入っていて、このままでは論文が書けないこと、卒業論文が書けないと、今年卒業出来ないかもしれないこと。そんな、学費を払ってくれている両親としては胃が痛くなりそうな話を、母親はただ静かに聞いてくれた。
「あんたの思うままに好きにしたらいい。家とかお金のことは心配しなくていいから、てげてげにきばりんしゃい」
母親の言葉が暖かくて、また、ちょっと泣きそうになった。
紅茶のカップを持って、ダイニングから寝室に移動する。寝室のデスクの椅子を引いて座る。いつもならノートパソコンが置かれているはずの机。そこは、がらんどうの空間だった。デスクの真ん中に紅茶のカップを置いて、一つ溜息をつく。
椅子を回転させ、ベランダの窓越しに外を見遣る。この方角では夕日は見えないが、夕暮れ時が近づいていた。そんな夕暮れ時の空を見ながら、ぼうっと、これからのことを考えていた。
柊ケイコと南雲教授のことは自分の誤解だった。その事実は、エリカの心に溜まっていた澱を、随分と綺麗にしてくれた。南雲先生にも、変な態度を取ってしまっていた気がする。それはまた、機会を見つけて謝らないといけない。
問題は、卒業論文だ。月末の締め切りまで、もう二週間ちょっとしか無い。また、ゼロから作業を再開することも考えられなくはない。でも、ノートパソコンを買ってセットアップして、それからプログラミングを開始して、データを取得して、そして整理して、そして卒業論文の執筆だ。
執筆には通常は二週間、短くとも最低一週間掛かるといわれている。そのためには、これまで三ヶ月で必死に頑張った内容を一週間でやらないといけない。無理だ。どう考えても無理だ。
最悪のパターンとして、出来る範囲だけやって、内容の無い卒論でお茶を濁すということも考えられる。柊ケイコの所属する藤村ゼミなどでは、本当に内容に厚みが無い卒業論文なんかも沢山あるという。事情を話したら、南雲先生もきっと許してくれるだろう。
しかし、その選択肢だけは嫌だった。今回の卒業論文は、自分だけのものではない。南雲先生が忙しい時間の中で、いっぱいアドバイスをくれて、馬鹿話もしながら、あの教授室の中で一緒に育ててきた卒業論文なのだ。そんな形で汚すくらいなら、いっその事、留年して、来年きちんとした形で提出したい。
でも、出来れば留年は避けたい。やっぱり、ちゃんと四年で卒業したい。
――プルルルルッ、プルルルルッ
その時、デスクの上に置いていた、スマートフォンの着信音が鳴った。
エリカは、「誰だろう?」と思いながら、それを取り上げる。液晶ディスプレイを見ると、知らない携帯電話番号だった。ちょっと、不審に思いながらも、通話ボタンを押して、電話をとる。
「……もしもし、下吹越ですが」
おずおずと、電話口で自分の名字を言うと、電話越しに聞き慣れた声が響いた。
『あ、下吹越さん? 僕、南雲仙太郎です。今、大丈夫かな?』
電話の主は、南雲教授だった。
下吹越エリカは驚いて椅子から立ち上がった。
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