奇襲を受けてもイイですか?
「――ハイッ!」
勢いよく手を挙げたのは鴨井ヨシヒトだった。
ゼミ室は小さな部屋だから、そんな声を出して勢いよく手を挙げなくてもよいのだが、鴨井は極端なくらい教科書的に斜め上方向に挙手していた。
下吹越エリカは「何を言うんだろう?」とちょっと不安になる。数週間前のゼミで机の上に落とした文庫本「
迷惑という訳ではないのだが、これまでプライベートで仲が良かった訳でもないし、そんなに気が合うという感じでもない。声をかけられても、エリカはぎこちない応答しか出来ず、少し居心地の悪さを覚えていた。
テーブルの上に左手を差し出して、南雲教授は鴨井ヨシヒトに発言を促す。
「下吹越さんのアイデアですが、僕もとても面白いと思います! 一般の人はあまり知らないかも知れませんが、『なりうぇぶ』は今のサブカルチャーを牽引する重要なメディアなんです。多くの映画化、アニメ化作品が『なりうぇぶ』から生まれていることはご存知かと思います! そのネットワーク構造を分析するというのは、サブカルチャー論の視点から見て大変意義深いと思います! ……さすが下吹越さんです」
情熱的な口調で鴨井ヨシヒトが一気に捲し立てる。情熱的なのはいいのだが、口から泡沫が飛び散っている。
さらに最後の「さすが下吹越さんです」のところでは、エリカに目配せをして眉毛をピクッと動かしてきた。何のアピールかは分からないが、それはウィンクの代わりのようなドヤ顔だった。その二つの間には埋めがたい溝があるのだが。
正直なところ、エリカは居心地の悪さに何と応じて良いか分からず、首を少しだけ前に出して小さく頷いた。
鴨井が言っている内容は決して間違っておらず、「なりうぇぶ」発の作品が多く映画化やアニメ化されているのも事実だ。多くの人は、それが元々「なりうぇぶ」発のWEB小説だということすら知らずに、それらの映像作品を楽しんでいたりする。そういう意味で「なりうぇぶ」がサブカルチャーを牽引するメディアであることは確かなのだ。
しかし、何故だろう、鴨井ヨシヒトが熱弁を振るうと、空気感としては「なんか違う」という雰囲気が立ちこめてしまう。
教授はそういう空気感には流されずに、鴨井くんの発言の要点を捉え、話を繋げた。
「そうだな。鴨井くんの言うことも、間違っていない。僕も『なりうぇぶ』は、面白いWEBサービスだと思うよ」
南雲教授の口からみんなに向かって「なりうぇぶ」という言葉がポロリと漏れる。「あっ、しまった」と下吹越エリカは自分がイケないアシストをしてしまったのではないかと、心の中で口許に手を当てた。
「え?……先生、『なりうぇぶ』とか見られるんですかっ?」
意外そうに言うのは女性陣仲良し三人組の一人、
「……ん、まぁね」
南雲教授は少し視線を泳がせながら言葉を濁した。
(あ……、そこは否定しなきゃ!)
エリカは話の流れがおかしな方向に行かないか不安になってきた。トリガーを引いてしまったのは自分なのだが。
その瞬間、
「もしかして、南雲先生、『なりうぇぶ』で小説とか書かれたりしてっ!」
意図してみんなに言ったという程の発言では無かったが、皆に聞こえた一言だった。中村メイは「まさかぁ」と苦笑いのような笑みを浮かべる。
(直撃だっ……!)
下吹越エリカは、突如上空から飛来した横尾翠の鋭すぎる直感推理に震撼した。それは突然襲来したエロラノベ同盟への奇襲爆撃だった。思わずエリカは、A4のレジュメで口許を覆う。
エリカがちらりと南雲教授の方を見ると本人は何かを考えるように天井を見上げていた。エリカはドキドキしながらその様子を見守る。
(……ま、まさか、認めるつもりじゃないわよね……?)
「先生、どうなんですか~?」
悪戯っぽい笑顔で御幸夏子が追いかける。
(先生……。いらないこと、言っちゃダメですよっ!)
下吹越エリカは、心の中で神に祈るしかなかった。
南雲教授は軽やかなスマイルと大人の余裕で
「うーん、まぁ、アカウントは作ったかな。でも、それ以上は秘密だよ。……って、あんまり探したりしないでくれよ」
と横尾と御幸の奇襲攻撃をさらりといなした。
この応戦方法により、南雲教授は、一切の嘘をつくことなく、事態の沈静化を見事に果たしたのだった。さすが、四十路教授の人生経験値と言ったところだろうか。表情には焦った様子は微塵もない。
大筋を認めつつも思わせぶりな南雲の台詞に女性仲良し三人組は「え~っ」と黄色い声で色めき立った。
「ほんと、探したりしないでね。恥ずかしいから」
「もちろんですよー! 先生のプライバシーは尊重します」
南雲教授が冗談めかして念を押すと、横尾翠が調子よく満面の笑みを作った。
(あー、これは、絶対に後で三人で検索して探すんだろうなぁ)
そう思いつつも、下吹越エリカは同時に、三人の目的が叶うことは無いだろうと思う。自分自身も試みにやってみたことはあったが、インターネット上でいくら検索しても、未恋川騎士と南雲仙太郎を繋ぐ情報は見つけられなかった。
三人は未恋川騎士と、南雲仙太郎をつなぐ糸の端を掴むことすら出来ないだろう。エリカは心の中で三人に「残念でした」と舌を出した。
秘密の共有という薄らとした蜜を、その舌で味わいながら、エリカはほんの少しだけの優越感に浸っていた。
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