なんか難化しちゃってもイイですか?


「先生。ちょっと脱線していますよ」


 議論する一行を乗せた列車を元の軌道に戻したのは、女子大学院生の一色ユキエだった。淡い色合いのカーディガンを羽織った、物静かそうで上品そうな顔立ちの先輩だ。


 南雲仙太郎は、振り返り

「ごめんごめん」

 と、一色ユキエに返すと、組んだ脚を解き、ホッチキスで止められたA4のレジュメをミーティングテーブルにそっと置いた。


「そうだねぇ、下吹越さん」

「はい……」

 南雲教授の呼びかけにエリカの背筋が伸びる。

 初めの「面白いんじゃないかな」という一言も、もしかしたら、お世辞というか、とりあえず言っただけで、本当はそんなにエリカの提案は良くなかったのかもしれない。

 やっぱり、初めての研究計画の発表なので「どんな批評をされるのだろう?」「何を言われるんだろう?」と、まだ、気持ちが落ち着かない。南雲教授からの声掛けに、下吹越エリカは否応なく息を吞んだ。


「WEB小説投稿サイトの『なりうぇぶ』がソーシャルネットワークとしての特長を持っているという点に注目したのはとても良いと思う。それをネットワーク科学でのネットワーク構造の分析を絡めようというのは、良い視点だし、もうその時点で、卒業論文のネタとしては十分に魅力的だと思うよ。例えば、クラスター分析したり、べき乗則があるかどうかを調べたりとかね」

 南雲教授は一息に、そして端的に総評を述べた。


 クラスター分析とは、たとえばソーシャルネットワーク上である程度以上の人数が相互フォローでをしているような集団がどんな形で存在しているかを分析することを意味する。「なりうぇぶ」で言ったら数十人の仲良しグループが、お互いに評価を付け合っているような現象の分析につながるだろう。

 べき乗則は、スモールワールドネットワークに近い話で、自然界に存在するネットワークが持っている特有の性質を指す。多くのソーシャルネットワークでもべき乗則が成立することが知られている。南雲教授が言っているのは、「なりうぇぶ」のユーザ間の繋がりや、作品を介したブックマーク関係などが、べき乗則を持っているかどうかを調査することが卒業論文の課題に十分なり得るという話だ。


 南雲教授のコメントに、ホッとして下吹越エリカは「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。しかし、それを南雲教授は右手で柔らかく制した。「話は終わっていない」とでも言わんばかりに。


「卒業論文としてのていはいいんだけどね。……でも、実際のところ『なりうぇぶ』っていうコミュニケーションの場を考えた時に、検証する仮説として、よくある『べき乗則を持ったネットワーク』だろうってことだけで良いのかな?」

「仮説として?」

 エリカには南雲教授が何を聞いているのかが良く分からなかった。


「いや、『なりうぇぶ』のような投稿サイトにおいて、フォロー関係が広がっていくプロセス、つまり、ネットワークが形成されていくプロセスって本当にツイッターやフェイスブックみたいな普通のソーシャルネットワークと一緒なのかな? と、ちょっと疑問に思うんだよね」

「……どういうことでしょう?」


 卒業論文としては良いと言ってもらえたのに、なんだか、話が広がっていく。卒業論文として十分なだけでは駄目なのだろうか。下吹越エリカは、少し不安になりながら、南雲教授の方を見た。

 南雲教授は真剣な顔つきで、顎に手を当てながら何かを考えている。視線をずらして、一色先輩の方を見ると目が合った。一色ユキエは、少し不安そうなエリカに「こういうものよ」穏やかな苦笑いを湛えた目で返した。下吹越エリカも苦笑いで返す。


 下吹越エリカは、以前、一色先輩から聞いた話を思い出した。


 卒業論文には決まった課題がない。全ての課題はカスタムメイドだ。そして、研究には終わりが無い。教授はいつも学問の先を無限の好奇心の目でもって見ている。だから、一人ひとりの学生の卒業論文の難易度にもまた際限は無いのだ。


 出来の良くない学生には卒業論文として最低条件を満たすテーマが課せられるが、先生が「この学生は出来そうだな」と思った学生に対しては、その学生の能力の限界まで、先生が卒業論文の難易度を吊り上げて行くというのだ。特に、先生が魅力を感じたテーマに関しては、その傾向が色濃いという。


 一色先輩の同級生の中には、南雲教授にいたく気に入られてしまい、テーマの難化が止まらず、年末年始を返上し、卒業論文の追い込みでも徹夜を繰り返した学生が居たという。戦慄せんりつである。

 その苦労が報われることもある。なんとか卒業論文を書き上げたその学生は、卒業時に総合人間科学部から学部優秀卒業論文表彰を受けた。大学院に進学する予定の一色先輩からすれば、その表彰は大変羨ましいものでもあったという。


 下吹越エリカは大学院には進学しない予定であるとはいえ、良い卒業論文を書きたいとは思っている。しかし、それも程度問題である。心身に不調を来すレベルとか、難化の果てにそもそも卒業論文が書けなくなってしまう事態などは是非とも御免ごめん被りたい。


 そんなことを頭の中で考えていた下吹越エリカの視線を捉えると、南雲仙太郎は楽しそうな声色でエリカに告げた。


「――このテーマって、もう少し面白くできると思うんだ」

(え……?)


 そこがエリカの卒業論文という列車が走る線路の分岐点ポイントだった。自分の卒業論文という列車の軌道が切り替わり、難化コースへと進路が取られ始めたことを悟る。握った手の平に、少し嫌な汗が滲んだ。


 三〇分程の議論の末、下吹越エリカの卒業論文の研究計画がほぼ決まり、その日の南雲ゼミは終了した。

「お疲れ様! いい卒業研究になりそうだね!」

 と言って、南雲仙太郎先生は黒いノートパソコンを畳むと意気揚々とゼミ室を出ていった。他の学生も順に荷物をまとめ、テーブルを離れていく。


 下吹越エリカは椅子に座ったまま天井を仰いだ。


『小説投稿サイトにおけるソーシャル・ネットワークのネットワーク分析とインセンティブ・メカニズムがそれに与える影響の解析』


 それが、暫定的に決まった下吹越エリカの卒業研究のタイトルだった。

 

 下吹越エリカは一ヶ月前に先生の部屋を訪問したときに言われた言葉を思い出す。


 ――ネットワーク科学とメカニズムデザインを『掛け算』するんだ。『その両方のエッセンスを持つような現象』を見つけて、その両方の視点から議論すると、なんとも新しい感じの研究になることが多いんだよ。


 そして、下吹越エリカが注目し、持ってきた現象、つまり、「なりうぇぶ」上のユーザ間のコミュニケーションという現象は、奇しくもこの二つのエッセンスを持つ現象だったのである。


 下吹越エリカは決してそういうことを意識して「なりうぇぶ」という対象システムを本日のゼミに話題提示したわけではなかった。「なりうぇぶ」に触れるようになったのも偶然だ。未恋川騎士のことを知らなければ、そのサイトを閲覧することすら無かっただろう。


 未恋川騎士に翻弄されてたどり着いた「なりうぇぶ」というWEBサイト、それはまさに、南雲仙太郎によって提示された研究テーマの条件を満たすのに最適な社会システムだったのだ。


 二つの人格、一人の男性。


(私って、先生にホント、翻弄されちゃってるよなぁ〜)


 エリカは椅子の背もたれに倒れ込むと、大きく溜息をついた。左肩をポンポンと叩かれ振り向くと、先輩の一色ユキエが苦笑いを浮かべてながら心配そうに覗き込んでいた。


「下吹越さん、大丈夫?」

「あ、はい。……なんとかなるかと……なりますかね?」

 なんとかなります、と言いかけて、やっぱり引っ込めて、疑問文に変えると、エリカは大学院生の先輩の顔を覗き込んだ。


「うーん。まぁ、卒業論文のストーリー的にはスジはいいと思うから、大丈夫だと思うけど。それは、さすが南雲先生って感じで……」

「あ……そうですよね」

「でも、正直、作業量は結構あるとおもうよ? あと、三ヶ月しかないし……。WEB上のソーシャル・ネットワークとなるとねぇ。下吹越さん、プログラミングの経験とかあるの?」

「いえ……、二年生のときにあったプログラミング演習の授業だけです……」

「そっかぁ〜、じゃあ、それもこれから突貫なのねー」

 一色ユキエの口から出た『突貫』という言葉がエリカの心に重荷としてのしかかる。やっぱり、かなり、きつい工程表にならざるを得ない卒業研究テーマなのだろう。


「まっ、でもうまく行ったらかなり面白そうだし、頑張って。何でも質問してね。私も何かあったら、手伝うから」

「ありがとうございます」

 エリカは手を振ってゼミ室を出ていく一色ユキエ先輩に深々と頭を下げた。淡い色のカーディガンを羽織った二つ上の先輩が、本気マジで天使に思えた。


「やるしかないか〜」


 机の上に置いていたノートと筆記用具をトートバッグに仕舞うと、下吹越エリカはゼミ室の椅子から立ち上がった。

 そして、ついに幕が上がった卒業研究の本格的な戦いへと、下吹越エリカはその一歩を踏み出したのだった。 

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