第九章 卒業論文へのアプローチ

本日のゼミを始めてイイですか?

 上叡大学東山キャンパスC棟四階、ゼミ室の大きなミーティングテーブルを十数名が囲んで座っていた。金曜日の昼下がり、南雲ゼミの時間だ。

 より詳細に説明すれば、今日参加しているメンバーは、九人の四年生と、二人の大学院生、そして、南雲仙太郎教授になる。南雲ゼミには十名の四年生が配属されているが、今日は男子の内の一人が欠席していた。


 全員の手元にはA4サイズのレジュメがあった。本日のゼミでの発表資料だ。そのA4三ページにわたるレジュメは左上をホッチキス止めされ、全員に配布されていた。

 南雲教授は椅子に浅く腰掛け、左脚を右膝の上に乗せる格好で足を組んでいる。左手をポケットに突っ込みながら、右手でそのレジュメを持って眺めていた。最後のページまで、捲ったところで、また、左手で一枚目のページまで戻す。


「――というような形で研究を進めようかなと思うのですが……、どうでしょうか?」

 下吹越エリカは、レジュメの説明を一通り終え、怖ず怖ずと南雲教授と大学院生の二人に意見を求めた。


 南雲ゼミでは毎週金曜日の四コマ目、午後二時半過ぎから一時間半の間、主に四年生のゼミ生を対象としたゼミを持っている。毎週、二、三名の学生が、卒業研究の進捗状況や、調査内容をレジュメにまとめて配布し、発表する。一人ひとりの学生の視点から言えば、大体、一月に一回の頻度で自分の発表の番が当たる換算だ。今日のゼミは、下吹越エリカの発表順だった。後期に入ってから二度目の発表だ。


 ゼミではそれぞれの学生が研究に関して行った内容や、研究計画、調査した文献に関する報告などについて報告する。その内容に基づいて、先生がコメントしたり、先輩の大学院生がアドバイスを出したり、みんなで議論したりする。各自は、その結果を持ち帰って、次回の発表までに、勉強や調査等を進めてくるのだ。基本的に、南雲ゼミでは大体こんな形で卒業研究が進められていた。


 エリカは少し緊張していた。ゼミで発表すること慣れずに緊張している訳ではない。ゼミ発表自体は、前期から続いていることなので慣れて来ている。そうではなくて、今日はこの一ヶ月で準備してきた自分の新しい研究計画を発表するから緊張しているのだ。

 もし、先生にこの計画を否定されたら、自分の卒業研究に暗雲が立ち込める。


 約一ヶ月前のゼミ発表では、先生に渡された本と追加で調べたことの報告を中心に行った。ネットワーク科学はお話としては分かったのだが、オークション理論に関してはちょっと苦戦した。数学の式がバンバン出てきて立ち往生した。


 ネットワーク科学でも数式は出てくるようなのだが、渡された本自体は縦書きのノンフィクションのような本だったので、結局そういう数学の詳細の理解は避けてなんとなく読んでいた。また、ネットワーク科学の話はソーシャルネットワークという身近なものを考えるとイメージしやすかった。

 これに対して、オークション理論では微分や確率を始めとした苦手な数学の話がいろいろ出てきて苦戦した。結局わからない部分も残ったが、大筋の雰囲気は掴めたのではないかとは思う。

 ただし、前回のゼミの発表では、その「なんとなく読んだだけ」というのが南雲教授には見事にバレてしまった。

「――下吹越さん。読んで来てくれたのはまずオッケーなんだけど、……なんとなく読んだだけって感じだよね。もう少し、数式とか恐れずに踏み込んでみようか?」

 と、グッサリいかれた。


 人気も高いがレベルも高いと評判の南雲ゼミだけあって、南雲先生の指導は決して緩くはなかった。学部学生の卒論に関しては、「正直、どうでもよい」とばかりに適当な指導をする先生もいるが、南雲教授は真面目だった。


「あと、卒業論文の題材を考えるのが大事だから、ネットワーク科学で行くなら、何か分析してみたい対象とか探してみて」

 という宿題も貰って、前回のゼミ発表は終わった。


 エリカは間違いなく真面目に準備していた方なので、ちょっとストレートに指摘されたという程度だったが、他の学生の中にはそれでは済まされない子もいた。

「中村さん、これ、『何も考えていません、卒業研究やっていません』って言っているのと一緒だよ? やらないと卒業出来なくなっちゃうよ?」


 先週のゼミでは、女子学生の内の一人、中村メイに、南雲教授は辛辣な言葉を投げかけた。南雲教授は斜め後ろを振り返ると大学院生の一人に「一色さん、あとで相談乗ってあげて」と投げる。南雲ゼミの大学院生、一色ユキエは少し戸惑いながら「あっ、はい」と頷いていた。


 中村メイは、両手を握りしめて膝の上に置きながら、辛そうな顔をして俯いていた。しかし、他の学生から見ても、南雲教授の指摘も当然と言えば当然だった。彼女の用意したレジュメはA4一枚で「卒業研究の内容」と書かれたタイトルと所属、氏名、学籍番号を除いていて、三つほど興味を持っていることと、なんとなくやってみたい研究内容が箇条書きで書かれていただけだった。後期の一回目の発表で先生からのコメントや宿題も出ていた。それらに対する言及もまるで無かった。言ってみれば、後期の二回目の発表だったにも関わらず、先生からの一回目の指摘事項を全て無視した形だったのだ。


 中村メイは、もともと、イケメンの南雲先生を追っかけて、このゼミを希望したタイプの学生の内の一人だったから、南雲教授にこういう風に辛辣に扱われるのは堪えたのだろう。ゼミの後で、女子の仲良し三人組のリーダー格、横尾みどりに「大丈夫だって~、南雲先生もホントはそんなに怒ってないよ~」と慰められながらも、泣いていた。

 女子同士の慰め合いを眺めながらも、来週の発表に向けて「明日は我が身」とエリカの背筋は凍った。


 そんなこともあったので、他の学生に比べると多めなA4のレジュメ三枚分という発表資料を用意しながらも、エリカはなお、幾ばくかの不安を抱えていた。

 研究テーマと研究計画に関しては「エロラノベ同盟」の特権を行使して、時々、先生の部屋にお邪魔しては質問しながら考えてきた。でも、やっぱりゼミ中の南雲教授と教授室での南雲教授はエリカの中では別の存在だった。二人きりでいる教授室では時々未恋川騎士モードにチェンジするのに対して、ゼミ中の南雲教授は完全に研究者モードであり、何があろうとも未恋川騎士モードに変身チェンジすることはない。そういう訳で、二人でいる教授室で南雲教授に緩いノリでコメントされることと、ゼミで教授に正式に認められることの意味には、エリカにとって大きな違いがあったのだ。


「うん。面白いんじゃないかな」

 少し間が開いてから、南雲教授は神妙そうな顔で頷いた。南雲教授から出た肯定的な言葉に下吹越エリカはまずはホッとした。


 南雲教授は顎に右手を当てて、何か考えている様子だった。少し経って、南雲教授は口を開く。

「院生の二人、一色と北上、何かある? コメントとか、アイデアとか?」

 先に自分が色々とコメントを言ってしまうよりも、学生に議論させようと教授はまず大学院生に水を向けた。南雲教授はゼミではいつも自分の意見より、学生のコメントを優先させる。「できる限り、学生達が議論して、様々なテーマをみんなが能動的に考えるようになることが学問において重要だからだ」と以前、先生自身は言っていた。


 教授の斜め後ろに座る大学院生の一色ユキエは少し首を傾げたあと、小さく頭を左右に振った。特に無いらしい。もう一人の大学院生の北上雄一郎が口を開く。


「僕はこのWEBサービスも使ったことがないし、ネットワーク科学も入門的な内容しか知らないんですが、卒論のテーマとしては実践的だし、また、あまり学会でも類似の研究を見たことが無いので、面白いと思います。残り時間が三ヶ月くらいなのでどこまで出来るか分からないですが、下吹越さんなら何かやってくれるんじゃないかって楽しみですね」


 先輩からの思わぬ好意的な期待の声に、下吹越エリカは赤面した。そんな先輩からのコメントに南雲仙太郎も嬉しそうに「そうだな」と頷いた。


「他に学部生のメンバーから、意見とかコメント、質問とか無いかな?」

 南雲教授がテーブルを囲む学部生達に水を向けた瞬間、一人の男子学生がビシッと真っ直ぐ斜め上に手を挙げた。


「――ハイッ!」


 手を挙げたのは鴨井ヨシヒトだった。

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