第四章 再訪
また先生の部屋に行ってもイイですか?
上叡大学では後期セメスターが始まり、二週間程度が過ぎていた。夏休みのムードも徐々に抜け、学部四年生の学生たちにとっては、卒業論文にどう取り組むかということをリアルな問題として意識し始める時期でもあった。
下吹越エリカは、その先手を打とうと一ヶ月前に一人教授室を訪問したわけであるが、その結果、知ってしまったこと、踏み込んでしまった世界は、彼女の予想の斜め上を行くものだった。
詳細は改めて述べないが、早い話が「卒業論文にどう取り組めばいいか?」という観点においては、前回の訪問は何の成果も産まなかったわけである。
だから、今日はリベンジの日なのだ。
一時間半のゼミが終わったあと、下吹越エリカは、ゼミ室から教授室に去り行こうとする南雲仙太郎教授の背中に声をかけた。
「先生、今から、少しお時間いただけないでしょうか?」
下吹越エリカはノートとペンケースを右手に抱え、左肩にいつものトートバッグを掛けている。
南雲教授はいつも通りのスマートカジュアルな服装だ。シャツの上から縦ストライプの入ったグレーのジャケットに身を包んでいる。ゼミ室の扉を出て少し先を行っていた南雲教授は、立ち止まり振り返る。
「あぁ、下吹越くんか? なんだい?」
端正な顔立ち。トレードマークの黒縁眼鏡の奥から覗く真っ直ぐな瞳は、大人の力強さと、少年の瞳の輝きを共存させている。南雲教授はすでに四十歳を過ぎてはいるが、世の中に多くいるサラリーマンとのオジサン方の四十代とは異なり、どこか、年齢を感じさせない若々しさを持っていた。
左手にはいつも持ち歩いている黒いノートパソコンを抱えている。
「あの、……前回伺った際に、相談できなかった、卒業論文のテーマについて、少しご相談させていただきたいんですが……」
下吹越エリカがそう言うと、南雲教授は左腕につけた腕時計に目をやって、現在の時間を確認した。午後四時半ちょっと前だ。少し視線を泳がせて、考えると、南雲は「いいだろう」と頷いた。
その腕時計も、すこし高級そうではあるが、南雲教授の雰囲気によく似合っていた。
「わかった。じゃあ、十五分後くらいに教授室まで来てくれるかな? ちょっと、急ぎで対応しないといけないメールが数件あるんだが、その後なら少なくとも三十分くらいは時間をとれるよ」
そういうと、南雲教授はニッコリと笑った。
「あ、……では、それでお願いします。十五分後に伺わせていただきます」
そう言うと、下吹越エリカはペコリと小さく頭を下げたのだった。
南雲は「そんな畏まらなくていいよ」と右手を上げてエリカのお辞儀を制止する。
「そうそう……。テーマを決めるに当たって、参考になる書籍とか、資料とか、論文とかあれば、印刷するなりなんなりして持ってきて。話の元になる資料が何もないと、有益な議論はできないからね」
そう言って、南雲教授は廊下の先の階段へと消えていった。
廊下に残された下吹越エリカは、その背中を見ながら、
(こうして話すと、本当に普通の、イケメン教授だなぁ)
と思うのだった。
彼が、あのエロラノベ作家
とりあえず、今日はそのことは置いておこう。それはそれこれはこれ、である。
今日こそは卒業論文のテーマをきちんと決めなければならない。
卒業論文は学部四年間の学びの集大成とも言われる大切なものなのだ。
下吹越エリカは、大学での学びの締めくくりとして、やっぱり、胸を張れるしっかりした卒業論文を書き上げたいと思っていた。
********
――コンコン
「……失礼しま~す」
下吹越エリカは、東山キャンパス総合C棟二階・南雲仙太郎教授室のドアをノックして少し待ったが、反応が無いので、もう先生からの返事を待たずに、ゆっくりとドアを開いた。
開いたドアから一歩踏み入れ、室内を覗くと、あの日のままの観葉樹、テーブル、デスク、ソファの並びがある。一ヶ月ぶり二度目の教授室侵入である。
(侵入じゃなくて、アポとってるんだけどね……)
教授室の奥の大きな窓に背を向けて、南雲仙太郎教授はエリカのいる入り口の方に向いたデスクで仕事をしていた。南雲教授は机の上のノートパソコンに向かって座りながら、左脇にある大画面のモニターの方を見てマウスを操作している。大画面のモニターは家のリビングに置いてある大型テレビのような大きさだ。
「南雲先生~っ」
下吹越エリカがあらためて先生の名前を呼ぶと、南雲教授はモニターから目を逸らし、エリカの方をみる。一瞬、止まり、思案した。少しの間の後に「あ、いらっしゃい」と言い、その後で、右手を挙げて「ちょっと……もうちょっと……まってね」と言いながら、南雲教授は再びキーボードを叩き出した。
下吹越エリカはコクリと頷く。
(あー……。また、忘れられてた? 私とのアポイントメント?)
たった十五分前にした約束も簡単に飛んでいってしまう人らしい。エリカは、脳内の南雲先生の
しばらくの間、エリカが、四人掛けテーブルの前でトートバッグを肩にぶら下げながら立っていると、南雲は、一瞬、エリカの方に目を遣り、左手でテーブルの座席に座るように促した。
エリカは四人掛けテーブルの椅子の一つにトートバッグを置き、その隣の一ヶ月前と同じ椅子を引いて腰掛けた。
今日は、机の上に書類は散乱していない。片付けたのだろうか。机の上には研究に関係しそうな書籍が五冊ほど重ねてあるだけだった。向かいの座席の向こう側にはソファがあるが、今日は毛布などは何も置かれていなかった。
エリカは一ヶ月前の南雲教授の寝姿を思いだして、心の中に苦笑いを浮かべた。記憶の中のソファの上で、毛布から頭だけを出してウンウン唸っていた教授と、現在、教授のデスクで真剣な顔をしてノートパソコンに向かう教授とを見比べる。
これが同一人物なのだろうか? と本当に思う。でも、本当に同一人物なのだ。
(私の教授はエロラノベ作家なのよね……)
――タンッ!
勢いよく一つ、南雲仙太郎教授はキーボードのエンターキーを叩いた。
「はぁ~。よーし」
一つ溜息をついて、南雲仙太郎はデスクの椅子から立ち上がった。
「おまたせ、下吹越さん。ごめんね、待たせちゃって」
申し訳なさそうに、されど、スマートに、南雲は机の上のマグカップを手に取ってデスクから下吹越エリカの座る四人掛けテーブルへと移動してきた。こういう発言や、立ち居振る舞いには、紳士然としたところがあり、イケメン教授の風格が漂う。
エリカも卒論の相談をしに来たのだと、あらためて背筋を伸ばした。
どうしても、この部屋に来ると、あの日の衝撃を思い出してしまうが、今日はエロラノベは関係ないのだ。今日の話題は卒論のテーマなのだ。「何が『やぁめぇれぇ~』よっ!『そうなのかにゃ?』なのよっ!」と夕日に叫んだあの日のことは一旦忘れよう。
南雲は、下吹越エリカの斜向かいの椅子に足を組んで腰掛けると、陶器のマグカップを机にコトリと置き、切り出した。
「それで、下吹越さん、相談って何かな?」
「あ……、えぇと……」
南雲教授の大人の研究者らしい真剣な声が、下吹越エリカの緊張感をジワリと誘う。
下吹越エリカは両手のひらを強く握った。手のひらに少しだけ汗が滲んだ。
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