先生と密会ランチしちゃってイイですか?

 下吹越エリカの部屋はマンションの8階にあり、この都市の街並みが一望出来る。ベランダに出てれば上叡大学の東山キャンパスも東の方角に眺めることも出来た。

 ベッドから窓越しに見えるベランダの向こうの暗闇の中には、家々の明かりが光る。その家々の中には、家庭があり、お父さんが子供をお風呂にいれたり、お母さんが娘と洗い物をしていたり、お爺ちゃんがテレビを観ていたりしていることだろう。実際には、単身者世帯やディンクス世帯もあるのだが、日本語で家と言えば家族や家庭といった言葉の一部を成すように、家の灯りはなんだか家族ある家庭を彷彿とさせるのだ。


『本気になっちゃおかな〜、なんて思ってたりして〜』

 スマートフォンから飛び込んできた柊ケイコからの「不倫に前向き」発言に、エリカの気持ちはかき乱された。


「ちょっと……、ケイコ」

『あっ、焦っちゃった?』

 電話口で柊ケイコはいたずらっぽく舌を出す。やっぱり冗談だったんだろうか。


「うん。焦るよ。……たぶん、この前も言ったけどね。やっぱり、不倫は良くないと思うよ。私も、ケイコが不倫でドロドロしたりするところはあんまり見たくないし、南雲先生が難しい立場に立たれるところも見たくないって言うか……」

 その言葉がもし冗談だったとしても、ケイコなら似たようなことをいつかやりかねない。ケイコには少し釘を差しておいた方がいい、とエリカは極力真面目に言葉を選んでケイコに諫言かんげんする。

 でも、返ってきたのは明るい笑い声とブーメランだった。


『あはは。心配してくれてありがとう。でもね。私は、逆にその言葉、そのまま、エリカに返しちゃうなぁ〜』

「……え?」

『だってエリカ、最近、南雲先生の部屋に入り浸りじゃん。週に一回どころじゃないでしょ? 2日とか3日とかいってるんじゃない? いくらなんでも、ゼミ生でもそんな学生そうそう居ないでしょ?』


(あ……)

 ケイコに指摘されて、エリカは初めてその事実、つまり、自分が不自然な頻度で南雲先生の教授室を訪問している、という事実を客観的に認識した。


 確かに、一ヶ月ちょっと前にいわゆる「エロラノベ同盟」を結成してからというもの、卒業研究の相談で、時々、先生の研究室にアポイントメントも無く、同盟の特権行使で訪問していた。特に最近は、時間があれば先生の教授室にお邪魔している。それは事実だ。


 先生に時間があれば、すぐに質問して帰る時もあるが、先生が仕事で忙しそうなら、四人掛けのミーティングテーブルで、自分自身の作業をしたり、卒業研究に関わる本や論文を読んだりしながら、時間を過ごした。流しの使い方も、ポットでのお湯の沸かし方も覚えたし、コーヒーメーカーの使い方だって覚えた。先生に何も言わずに、勝手にティーバッグを使って紅茶を頂いてしまうことだってある。だって、それは「エロラノベ同盟」の盟約で得た特権だったから。


「で……でも、私はそんな、やましいこととか何もしてないし……」

『うん、それは分かってる。エリカだからね〜。でも、あんまり度が過ぎると、周りからいつ変な詮索をされ出すか分からないから、気をつけた方がいいかもしれないわよ〜』

 柊ケイコにして、大人で冷静な助言だ。エリカは「うん、わかった」とスマートフォンを両手で持って謙虚に頷いた。


『でも、エリカ、本当に南雲先生に特別な感情とか持ってないの?』

「しつこいなぁ、ケイコも」

『だってねぇ〜。毎日のように教授室に通う「通い妻」みたいなんだもん』

 そう言うと、電話越しに柊ケイコはくすくすと笑った。ケイコは、こういう色恋沙汰が三度のご飯よりも好物なのだ。


「ないのっ! ないない。南雲先生は私の指導教員で、最近、質問とか相談することが多いだけっ!」

 エリカはベッドから立ち上がると、わざわざスマートフォンを口許に近づけて宣言した。それは、ケイコのみならず、自分自身にも言い聞かせ、世界に向けて行った宣言だった。


『じゃあ、私が、南雲先生を狙ってもいいわけだ』

「ど……どうぞ。……って、私のことはイイけれど、不倫はだめだからねっ! ケイコ」

 色めくエリカに、電話越しのケイコは笑いながら「ハイハイ」といなすような返した。ケイコは本当に南雲先生のことを好きになりだしているのかもしれない。そう考えると、エリカは胸がチクリと痛むのを感じた。


「でも、ケイコ、後期始まった時は「卒業まで南雲教授センセーとは接点無いと思う」って言って無かったっけ?」

『うん』

「じゃあ、どうして今更……?」

『接点できちゃったから』

「え?」

『なんか、接点できちゃったの』

「……そうなの?」

『うん。そんでもって、昨日なんて、一緒にランチしちゃったから』

 まったく思いもしない告白だった。いつの間にそんなことになっていたのだろう。


(でも、南雲先生は、ケイコとランチを食べたなんて一言も……)

 そこまで、考えてエリカははたと立ち止まった。そもそも、南雲教授がランチを柊ケイコと一緒に食べていたからと言って、それを自分に報告しなければならない義務なんてあるだろうか。同盟関係があったとしても、自分はただのゼミ生の一人に過ぎないのだ。それ以上でも、それ以下でもない。


 柊ケイコは電話越しに、「接点ができた」という言葉の意味を説明した。きっかけは柊ケイコの卒業論文のテーマだった。

 柊ケイコは藤村教授のゼミに所属している。藤村教授は総合人間科学部の教授陣の一人で専門は文化人類学だ。中肉中背で、いかにも中年の教授といった感じだった。話し方も時々嫌味っぽかったり、僻みっぽかったりするが、悪い人間というほどではない。失礼を承知で言えば中年太りの割には「小物感」のある先生といったところだろう。同時に、ある意味で温和というか、適当テキトーな性格でもあり、配属されたゼミ生はほぼ百パーセント卒論を受理されており、絶対卒業できる安牌アンパイ研究室の名前を欲しいままにしていた。


 その藤村先生が意外と、南雲教授と仲が良いらしい。年齢も十歳以上違うし、雰囲気も随分と違うし、研究分野もあまり近いようには見えない。エリカは二人の距離の近さを意外に感じた。


「意外でしょ〜。あのハゲチャビンがイケメン南雲教授センセーと仲がいいなんて」

「ハゲチャビンって……」

 確かに藤村先生の頭は禿げ散らかしているが、自分の指導教員を捕まえて、ハゲチャビンはあんまりだ。


 その藤村教授が南雲教授と一緒に共同研究テーマの立ち上げを検討し始めたという。そこで、ゼミ生に「だれか、南雲ゼミとの共同研究に興味のある学生は居ないか?」と話を振り、柊ケイコが手を上げたのだという。


 ――私、実はゼミ配属の時に、最後まで、藤村ゼミか南雲ゼミかどちらにしようか迷っていて、……その両方の研究に関われる、そういう機会があるのなら、大変興味があります!


 調子の良いことである。柊ケイコが卒業研究にそんなに興味を持っていないことは、以前から聞かされてエリカも知っている。


「で、ホントのところはなんで手を挙げたの?」

『だって、手を挙げたら南雲先生と接点が出来るでしょ? そこから何か始まるかもしれないわけだし。あ……それと南雲ゼミにはもちろんエリカもいるしねっ』

 要は研究テーマはどうでもよくて、南雲先生に接近するために、藤村教授の提案を利用したということだろう。さすがの女豹、柊ケイコである。


 前の彼氏と分かれて、珍しくも二ヶ月もの期間に渡って男旱おとこひでりを続けた親友のギアがなんだかおかしなところに入ってしまったのかもしれない。

 下吹越エリカはケイコの言葉に一抹の不安を感じたのだった。

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