第十章 研究計画を実施せよ

ノートパソコン持っていってもイイですか?

「最近、しばらく来てなかったけど何かあった?」


 ノックして部屋に入ると奥の机から南雲先生が声を掛けてきてくれた。

 下吹越エリカは久しぶりに聞く、南雲先生のその一言が嬉しかったし、その気安い声色に思わず頬が緩んだ。

 教授室に来なくても、週に一回は南雲教授には金曜日のゼミで会うのだが、ゼミの中の先生は、まさに南雲教授として、厳しく鋭い佇まいになり、教授室で話す先生とは少し別の存在に感じられる。こんな気楽なムードで話しかけられることは無い。

 

「あ、ちょっと忙しかったっていうのと、特にそこまで聞きたい質問も特に無かったので〜」

 エリカは扉口に立ちながら少し視線を泳がせた。

 右の壁際のソファと、先生のデスクの間にある衝立にピン留めされた幾つかの写真が目にとまった。一つは、海外で白人の研究者らしき人と一緒に写っている写真、一枚は先生と年齢の近い女性と、二人の子供の写真。きっと家族写真だ。


「そっか。卒論が順調なら何より」

 と、南雲先生はデスクの上の大型液晶ディスプレイに視線を留めたまま答えた。


 嘘だった。

 「聞きたい質問も特に無かった」というのは嘘だった。

 忙しかったのは、本当だったが、聞きたいことは色々あった。どうして柊ケイコとランチに行ったのか、また、柊ケイコのことをどう思っているのか。もちろん、卒業研究で取り組んでいる「なりうぇぶ」のソーシャル・ネットワークを解析するためのデータ取得の方法も、プログラミングに手間取っていたし、そのことについて聞きたかった。


 本当のことを言えば、ちょっとした質問が心に湧く度にでも教授室を訪れたかったが、柊ケイコの言葉が、エリカの足にブレーキをかけていた。


 ――あんまり度が過ぎると、周りからどんな変な詮索をされ出すか分からないから、気をつけた方がいいかもしれないわよ。


 やましいことは何もない。それでも、柊ケイコの忠告が下吹越エリカの心には引っかかっていたのだ。だから、この部屋に来たくても少しだけ我慢することにしていた。今回は一週間我慢して、久しぶりにやってきた教授室だった。


 夏休みの終わりに初めて教授室を訪問するまでは一度も、この部屋に来たことが無かった。それなのに、一週間来ないだけで、長く来ていないような気持ちになるだなんて不思議なものだ。でも、さっきの一言から、その感覚が自分だけのものではなく、南雲先生にも多かれ少なかれ共有されたものであることが読み取られて、エリカはちょっと嬉しかった。


 柊ケイコと先生のことは気にはなるが、きっと、柊ケイコが一方的に仕掛けているだけだろうし、どう考えても事態がそんなに急展開するとも思えない。また、南雲先生は根っこのところで真面目だし、ケイコの誘いにホイホイ乗ってしまうようなタイプでもないはず。だから、自分の口から、そういうことを聞くのは止めておこうと思う。


 そもそも、先生に聞くとしても、エリカ自身が何故そのようなことを聞くのか、どのような立場としてそれを聞くのか、という点に関しても全く整理がついていないのだ。


「先生……、で、質問あるんですけど」

「あ、ごめん、五分待って」

 エリカが南雲先生に声をかけると、南雲先生はエリカの方に視線を動かさないままでカタカタとキーボードを叩いた。


「は〜い」といつものように返事をすると、エリカはいつものトートバッグを四人掛けミーティングテーブルの座席の一つに置き、持って来たもう一つの平べったいバッグを机の上に倒して置いた。そのファスナーをゆっくりと開いて、エリカはノートパソコンを取り出した。


 カバンに見えたそれは、ノートパソコンのキャリングケースだった。ピンクのキャリングケースは、可愛らしい色合いとフォルムでエリカのお気に入りだった。インターネットで検索していて見つけたオンラインストアで半年前くらいに購入した。


 エリカはプログラミングと、執筆、発表資料作成といった卒業論文関係の作業には、基本的に自宅に置いてあるノートパソコンを用いている。学校のメディアセンターにあるような共有パソコンでは不自由することが多い。特にプログラミングの作業に入ってからは顕著だ。

 キャリングケースを幾ら気に入っていても、重いノートパソコンを持ち歩くのはしんどい。そもそも持ち運びやすさより、値段と性能、画面の大きさを重視して買った自宅用のノートパソコンなので、毎日カバンに入れるには大きすぎて重すぎる。基本的には、講義もゼミもテキストとレジュメ、ノートと筆記用具が中心のスタイルだったので、ノートパソコンを持ち運ぶ必要は無い。先生に相談するとか、どうしても外でパソコンを使う必要がある日だけ、このキャリングケースに入れて持ち歩くのだ。


 エリカはノートパソコンを開くと「Erica-PC」と表示されたログイン画面にユーザ名とパスワードを入れて、システムにログインし、ブラウザを立ち上げた。白い画面になりブラウザにホームページが出てこない。「あっ」と、インターネットにつながっていないことに気づいて、エリカは画面の右下から無線LAN接続の設定ウィンドウを開く。いつも繋がせてもらっている教授室のWi-Fi接続を選択して接続した。


 学内で学生誰でもが使えるWi-Fi接続もあるのだが、総合C棟のこの辺りではどうも電波が不安定でよく切断される。数週間前に教授室に来た時に「あぁ、じゃあ、この部屋にいる間はこっちの無線LAN使ったらいいよ」と南雲先生が個人的に部屋の中に立てているWi-Fiスポットを教えて貰った。そのSSIDなまえが「Nagumo-Net」であることと、その秘密鍵パスワードが何であるかをこっそりと教えて貰った。

 そちらに繋いでからは、この部屋でのネット接続はとても快調だ。Erica-PCがNagumo-Netに繋がってからというもの、下吹越エリカは大学でとても快適なネット生活を楽しめるようになった。もちろんErica-PCにNagum-Netの秘密鍵パスワードが与えられ、繋がったのは、卒業論文を進めるためであり、その接続には他意は無かったのだが。


「……おまたせ」


 両手を机について南雲教授がゆるりと立ち上がった。


 教授の穏やかな視線が下吹越エリカに向けられた。ソファを背に椅子に座る、下吹越エリカの瞳がその視線を受け止めた。

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