ホテルで遭遇しちゃってイイですか?

 ホテル・グランジュールは駅前に立つ品格あるホテル。


 ホテルという場所は第一義的には宿泊施設であるわけだが、こういうホテルは、結婚披露宴から、記念式典、謝恩会から、同窓会、政治家の決起集会から、国際シンポジウムなどの学術集会まで、さまざまな催し物の開催会場になる。

 一階から三階までに宴会場やレストランがあり、四階より上が宿泊者のための客室フロアになっている。

 エリカの父は、このホテルであった技術説明会及び交流会に、会社を代表して参加するために来たと言っていた。

 エリカは父の仕事について、あまりよく知らない。関心が無いわけではないのだが、父が会社のやっていることの内容は技術的で、エリカにとっては良く分からないのだ。もともと、父自身も技術的な仕事の話を家ですることも無かったので、その仕事の内容を知る機会もあまりなかった。


 エリカとマコトは、食事を終えてエスカレーターで上がって行く父親の背中を下から手を振って見送っていた。エスカレーターは四階、客室階へと父親を運んでいく。


「ねーちゃん、これからどうすんの?」

 父の姿が見えなくなったのを確認して、弟のマコトがエリカに声を掛ける。


 三人は午後六時にホテルロビーに集合して、三階のレストランで一緒に食事をした。レストランで頂いたのは、まさにホテルのディナーコースという感じで、次から次へと洒落た盛り付けのお皿が出てきた。

 成人した子供二人と食べるホテルのディナーに、父親は終始ご満悦であった。父親の奢りで食べられる高級料理にマコトは舌鼓を打っていた。エリカも、そんな二人に囲まれてディナー自体は楽しめたし、良い気分転換になったと思う。


 ホテルのディナーとはいえ家族での会話なんて、そんなに変わらない。父親も初めのうちは「こっちでの暮らしはどうだ?」「自宅を離れた学業に取り組む価値というのを感じているか?」などと、ホテルの雰囲気にあてられてか、やたら畏まった質問を投げかてきていたが、三人の話題は、結局、実家のコタツでみかんを食べながら話すのと、何ら変わらない話題に収束していった。

 まぁ、そんなわけで、三人の食事はつつがなく終わったのである。


 マコトとエリカはホテルのエスカレーターの踊り場に立っている。

「これからって? 今日の夜?」

「うん、そうだけど」

「そりゃ、帰るわよ? 何か他の選択肢でもあるの?」

 エリカは、マコトが何を言いたいのかよく分からず問い返す。姉弟でこの時間から何かやることなんてあるのだろうか。ボーリングとか? カラオケとか?


「んー。無いなー」

 マコトは頭をぽりぽりと掻いた。特に何の考えも無しに言っただけらしい。

「じゃ、帰るわよ。マコト」

「ほーい」


 そう言うと、エリカはホテルの二階へと降りていくエスカレータへと乗り込んだ。マコトがエリカの後に続く。

 エスカレータの手摺を掴み、段々と下階へと移動していく床の動きに身を任せる。下の階を見ると、踊り場の左右に、また、別のレストランがある。そのうちの一つは中華料理で、もう一方が、欧風料理のレストランだ。


 その欧風料理のレストランから、一組のカップルが会計を済ませて出て来ようとしていた。特に注意を払っていた訳ではないが、下吹越エリカの視界にその二人の姿が飛び込んでくる。何の気なしに見ていたその光景に、下吹越エリカの目は徐々に見開かれていった。


(え……?)


 男性の方は四〇代前後で縦縞の入ったスーツを着て、黒縁メガネを掛けている。女性の方はまだかなり若く、二〇代前半のようだが上品なワンピースに柔らかい生地のジャケットを羽織りホテルの雰囲気にあった大人の雰囲気を放っていた。

 その二人が誰であるかは、エリカにとっては一目瞭然であった。


 そうなると、何故だか、寧ろ、エリカには自分がそれを見たことを気付かれたくないという気持ちが沸き起こってきた。自らの顔が見られないように視線を逸らすと、無言で二階の踊り場を足早に通り過ぎる。

 急に早歩きになった姉を、弟のマコトは追いかけようと足取りを速めた。


「姉ちゃん、どうかした?」

「……なんでもない。ちょっと、……思い出したことがあって」


 一階へ降りるエスカレーターの上でもエリカは落ち着かなかった。自分のことではないのに、心臓がバクバクする。それだけじゃない。なんだか、両足までガタガタする。二人に呼び止められることなく、一階に辿り着いた時、エリカはホッとして胸を撫で下ろした。これで一安心だ。

 本当なら見たくなかった。もう、見てしまったからには、自分がそれを見たということを知られたくない。そんな風に思った。


「姉ちゃんてば……、なんかあったの? 急に押し黙っちゃって?」

 マコトは怪訝そうな顔でエリカの顔を覗き込む。


 ――でも、見ない、見られない、知らない、知られない。それで良いんだろうか?


 エリカは自分自身に問いかけてみる。そもそも、何故自分は、こんなに二人の関係に対して敏感センシティブになっているんだろうか。


 ――ケイコに不倫をしてほしくないから? 南雲先生に裏表のない人であって欲しいから? 南雲先生を私自身が独占したいから? ケイコを取られたくないから?


 自分でも心臓の動悸の意味が、躰の震えの原因が、よく分からなかった。でも、このまま知らない、分からないじゃ、事態は変わらないんじゃないかとも思った。

 しっかり、この目できちんと確認しよう。そして、現実を受け止めよう。そして、さらに、必要あれば、その事実に関して、二人ときちんと話そう。

 エリカはそう考えて、きびすを返した。


「ごめん、マコト。ちょっとお姉ちゃん、忘れ物っていうか、思い出したものがあるから、一旦上に戻るね。ここで解散ってことで、じゃあね! また、大晦日あたりに鹿児島の実家で!」

 そういうとマコトの返事も待たずに、エリカは再び二階への上りのエスカレーターに乗り込んだ。ちらりと振り返ると、マコトはちょっと不思議そうな顔をしていたが、「了解」とばかりに右手を上げると、ホテルのロビーへと歩いていった。


 エリカは左手を握り。胸に押し当てる。


 一度だけ、ぎゅっと両目を瞑り、覚悟を決めると、気持ちを強く、二階のエスカレーター出口へと視線を向けた。


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