決定的瞬間を目撃してもイイですか?

 下吹越エリカを乗せたエスカレーターはゆっくりと、彼女をホテル・グランジュールの二階へと運んでいった。

 エリカがさっき三階から二階にエスカレーターで下りてくる時に見たカップル。あれは、間違いなく、南雲仙太郎と柊ケイコだった。その二人が、ホテルの欧風レストランからディナーを終えて出てきたのだ。

 しかも、南雲仙太郎は大学ではまず着ているところを見ない整ったスーツを、また、柊ケイコも上品なワンピースにジャケットを羽織っていた。それは、どこからどう見ても、ホテルにやってきた男女のカップルの姿だった。年の差はあるにせよ、その現実を補って余りある雰囲気を二人は放っているように見えた。

 

 エリカは、ふと、後期セメスターが始まり、しばらく経った頃に、南雲教授に連れられて「餃子の大将軍」に行った時のことを思い出していた。

 あの時は、自分が勝手に「ホテルのビュッフェやフレンチのレストランなどにでも連れて行ってもらえるのかな」などと変な期待をしてしまっていたところで、低価格の中華料理店「餃子の大将軍」に連れて行かれたのだった。

 始めは意外に思ったりしたが、実はそれは周りに誤解をされたり、変な噂がたったりすることを避けるための大人の配慮だったと気付き、自分の浅はかさを反省しさえしたのだった。

 南雲教授は「教え子の女性とホテルのレストランに二人きりで入ったりしない」といった大人の配慮をきちんと持っていると、エリカは知った。

 

 南雲仙太郎はこうも言っていた。


 ――まぁ、もちろん女性を口説く時とかなら、そういう奮発もするけどね。それこそ、指導学生とホテルのレストランで食事なんてしてるところを目撃されたら、変な噂を立てられたりするかもしれないし。そういうの困るでしょ?


(じゃあ、これは何なんですか? 南雲先生?)

 

 なんだか、これまで積み重ねてきた南雲教授への信用が、エリカの中で少しずつ崩れ始めるのを感じる。


(つまり、柊ケイコという女性を口説くのだから、そういう奮発もする、学生とホテルのレストランで食事をする、ということですか? 先生?)


 柊ケイコを口説くということは、ただ単に学生を口説くということだけでは済まされない。それは不倫だ。そして、教え子を不倫の泥沼に引きずり込むことになるのだ。それは、ただ個人的な言葉や信念の問題ではない。法的な意味を含めた背徳性がある。エロラノベを書いているなんてこととは本質的に異なる。


 それに加えて、小さなことかもしれないが、それでも下吹越エリカの心にどうしても引っかかってしまう事実もあった。

(ケイコはホテルのレストランで、私は「餃子の大将軍」なんですね……)


 それらの料金には五倍程度の開きがある。それは本質的な問題では無いし、比べるべきものでも無いと分かっている。

 でも、それでもやっぱり、何か、この違いがエリカの心に澱のような思いを沈殿させるのだった。

 

 もしかしたら、南雲教授と柊ケイコが二人でホテルのレストランでディナーを食べる別の理由があったのかもしれない。二人のプライベートなディナーだと決めつけるのは時期尚早かもしれない。そういう一縷の望みを持って、下吹越エリカはホテル・グランジュール二階の踊り場へと踏み出した。

 エスカレーターを二階で降りて、さっきの欧風料理のレストランの入口を見ると、南雲仙太郎と柊ケイコと思われるカップルは、そこにはもう居なかった。


 周囲を見回す。居ない。

 もしかしたら、帰路について一階に下りたのかもしれないと振り返ったが、下りのエスカレーターの上に二人の姿を見つけることは出来なかった。そもそも、下りのエスカレーターに乗っているなら、途中ですれ違った筈だ。

 そして、視線を上方前方へと向けた時、さっき見た男女のカップル、南雲仙太郎と柊ケイコの後ろ姿をエリカの視界が捉えた。三階へと繋がるエスカレーターの上だ。二人は隣り合って談笑しながらホテルの三階へと上昇していっていた。

 エリカはなんとか二人に気づかれないように最大限の注意を払いながら、自分自身も三階に続くエスカレーターへと乗り込んだ。


(三階に何の用事なんだろう……?)


 三階にあるのはエリカやマコトが父と一緒に食べていたレストラン。そして、あとは宴会場だ。今はそれぞれの宴会場で、それぞれの宴会や催し物が開催されているはずだ。その何れにも、二人が関係するとは思えない。

 エリカと二人の間にはそこそこの距離があるので、二人が三階で降りて先に進みだすと、エリカからは二人の姿が一旦見えなくなった。

 しばらくして、エリカも三階に到達する。

 ほんの二、三分前、父親と別れた後に、マコトに「じゃ、帰るわよ。マコト」と言った場所だ。


 三階に着いて、エリカは二人の姿を捉えようと三階のフロアを見渡した。

 家族で入ったレストランの前には、ウェイターさんに何かを質問している外国人カップル。違う。宴会場の扉の前の窓際ではスマートフォン片手に宴会を抜けて電話を受けているビジネスマンが一人。違う。コートやカバンを預けるクロークに四人ほどの人が並んでいる。居ない。


 三階でも、再び、二人の姿を見出すことは出来なかった。「そんなはずは無い」と、エリカは何度も左右に目を遣る。確かに二人はこの階に上がってきた。では、レストランか宴会場に入ってしまったのだろうか。そうであれば、追跡するのは難しいが、そこまでの時間は経っていないと思う。


 そうだ。でも、それ以外の可能性が、もう一つだけある。


(……まさかね)


 エリカはエスカレーターを降りた踊り場から左手に廻り、クロークの前を抜け、その裏側へと小走りに移動した。エスカレーターの裏手に回ったところで、斜め上を見上げる。

 そこは、四階行きの上りのエスカレーター。


(ケイコ……! 先生……!)


 居た。二人が居た。


 四階まで上るエスカレーターの丁度半分くらいを上った辺りに、二人は立っていた。南雲仙太郎が右寄りに立ちながら、腕を広げて両側の手摺りを持っている。ケイコはハンドバッグを右手に抱え、前方を向きながらも、エスカレーターの左側で南雲先生の方に笑顔を向けていた。広げた南雲仙太郎の左手に抱えられるように、身を預けているようにも見える。


 四階より上は客室階だ。宿泊者のみが入っていくゾーンだ。

 下吹越エリカは鳩尾の上に握った左手を強く握りしめた。息が苦しい。


(あれ……?)


 ホテルのディナーで食べすぎたのだろうか。いつもよりかは少しお洒落して来たのでベルトを強く締めすぎたのだろうか。胸が苦しい。


(あれ……? あれ……?)


 エリカはもう、それ以上、足を前には動かせなかった。四階行きのエスカレーターの前で立ち尽くし、二人の姿が踊り場から見えなくなるまで、そこに立っていた。


 頭がぼうっとする。どうしたら良いのか分からない。

 胸に当てた左手の二の腕で右手で引き寄せるようにして、抱きしめた。


 しばらく、エスカレーターの前で立ち尽くしていると、後ろから「すみません……、そこいいですか?」と三〇代くらいの男性に言われた。ハッとして、振り返ると男女のカップルが立っていた。エリカは自分が四階へのエスカレーターの前を塞いでいたことに気付き、「あ、すみません……」と道を譲る。

 そして、エスカレーター近くの白い柱の側まで移動すると、エリカはその柱へと力無く背中を預けた。そのまま、しばらく動けなかった。


 結局、五分間ほど時間が経ってから、エリカはエスカレーターに乗り、一階へと再び降りて行った。ホテルを出る前に、ロビーで「マコト、まだ居るかな?」と見回したが、弟の姿を見つけることは出来なかった。エリカは一人でホテルを後にした。

 

 地下鉄に揺られ自宅の最寄り駅まで辿りつく。片側一車線の車道の脇を一人で西方向に歩く。地下鉄の最寄り駅から自宅のマンションまでは少し歩かなければならないが、改めてバスに乗るほどの距離ではない。


 太陽はとうの昔に沈んで街は暗いが、自宅近くの書店の窓ガラスからは店内の蛍光灯が煌々と光を放っていた。その光に気を取られ、エリカはその店の前で立ち止まる。店の外側からでも、本棚の列が見える。一番西側の壁面に並んでいるのが、ライトノベルコーナーで、その奥がコミックスコーナーだ。


 四ヶ月くらい前、この店で未恋川騎士の文庫本を手に取った時のことを思い出す。「聖☆妹伝説セイント・シスター・レジェンド アポカリプス」第一巻を手にとって、あらすじを見て頭を抱えたっけ。

 そして、初めてエロラノベを一冊読んで、よく分からなかったけど、なんだか感動してしまった。南雲先生は「あれはエロラノベではない。王道ファンタジーだ」って言うけれど、エリカ自身もあれが「王道ファンタジー」だってことを否定するつもりはない。エロラノベであり、王道ファンタジーでもあるのだ。それでいいじゃないか、と思う。


 ちょっと目頭が熱くなった。それから四ヶ月の思い出が、南雲先生と交わした言葉が、冗談が、記憶の中で踊っては、エリカの心を揺らす。そんな揺れる心をを落ち着かせようと、下吹越エリカは真上を向き、目を閉じた。

 ほんの一時間前まで、そこにあった世界が崩れさり、何かが消え去りそうな不安感が、下吹越エリカの心を支配した。


 理由の分からない、切なさと、寂しさ、悲しさが胸に溢れ、空を見上げる下吹越エリカの瞼を熱くした。


 ――そんなんじゃない、涙を流す理由なんてない。


 そう思うのに、瞼から涙が溢れ、目の端からこぼれ落ち、それは両頬を伝って落ちていく。胸の奥から突き上げる複雑な想いの塊が、喉の奥から溢れ出し、それは小さな嗚咽へと変わった。


 卒業まであと三ヶ月となった大学四年生の冬の日のことだった。

 

 下吹越エリカの揺れる物語の隣には、エロラノベ作家の教授は居なかった。

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