第十三章 鹿児島

こたつで寝ていてイイですか?

 十畳ある和室の中央には臙脂えんじ色の布団が掛けられたこたつが鎮座していた。


 部屋の隅にはそこそこ大きな液晶画面がテレビ台の上に置かれている。テレビから逆側の、正方形のこたつ布団の二辺からは、ニョッキリと二つの上半身が生えていた。二人共、畳が放つ万有引力に引き寄せられて畳面に水平に横たわっている。

 テレビの画面はついていない。年末年始もテレビ番組にあまり面白いものはない。最近は、動画を見るのも基本的にスマートフォンやパソコンだ。


「ねぇちゃん、今日なんかあんの?」

 逆方向を見ながら、弟のマコトは姉に声をかける。

「ん〜。特に無いわよ〜。なんで?」

 姉のエリカはそう言ってから、手元のスマートフォンのカレンダーアプリを開き、自分の予定が真っ白であることを確認する。今日の日付には、登録している「日本の祝日」カレンダーが、ただ一つ「大晦日」という予定を入れている。


 鹿児島県の東側、桜島が見える街の中の家、つまり、下吹越エリカの実家に、彼女は帰ってきていた。クリスマス寸前の年末最後のゼミが終わるや否や、下吹越エリカは、早めに鹿児島まで飛んでいた。お正月直前のフライトの混雑を避けるように。

 ノートパソコンを持って帰ってきたので、卒業論文の続きは実家ででも出来る。研究対象がインターネット上のWEBサービスなのもあって、大体の情報はインターネット上に有るし、分析手法なんかについての情報も一通りまとめて持って帰ってきてある。冬休み中に読んでおきたい学術書は三冊ほどスーツケースに入れて持って帰ってきた。


 弟のマコトは飛行機でなくて、何故か、電車を乗り継いで帰ってきた。移動時間でも金額でも鹿児島への帰省は飛行機の方が便利なのに、物好きな子だなぁ、とエリカは思う。マコトが「電車で、太平洋から瀬戸内海、関門海峡を抜けて、日本の国土をこの身体で感じてみてかったんだよ」なんて柄にもなく無駄に熱いことを言うので、「あっそ」とエリカはジト目で返した。


 あの日から、どうにも身体に力が入らない。

 憂鬱な気分が全身の筋肉を弛緩させ、頭もなんだかボウッとする。


 結局、あの日の夜、家に帰ってからは、お風呂で温まってベッドに倒れ込んだ。卒業論文の続きをやる元気なんて残っていなかった。

 木曜日、「じゃあ、明後日また来ます」と火曜日に先生に言っていたその「明後日」には、エリカは大学へは行かず、結局、一日中家に居た。

 柊ケイコと南雲教授の関係について、勝手に誤解して思い込んでしまっているだけ、という可能性も無くもないのだからちゃんと確認しよう、と思ったりもしてはいた。でも流石に先生に直接聞くわけにも行かないし、柊ケイコに聞こうかとLINEアプリをベッドの上で開いて、「何て聞こう?」と思案しては、何も出来ずにいた。


 ベッドの上に座って、テキスト入力欄に「先生と付き合い始めたの?」と、入力してはバックスペースで全削除する。あまりにストレートすぎる。「おめでとう!」と絵文字を付けて入力してみる。でも、なんの事だか分からない気がして止めた。「昨夜、ホテルに居ませんでしたか?」これは尾行していたみたいで本当に怖い。なんか違う。結局、エリカはスマートフォンをベッドの上に投げ出した。ベッドの上にバタリと倒れ込む。はぁ、と大きく溜息をついた。ゴロリと転がって仰向けになる。


 左腕の裏で両目を抑える。泣いているわけではない。それから、腕をずらして手のひらでおでこを押さえた。熱は無いようだ。あまりに全身に力が入らず、気怠いので、風邪でも引いたのではないかと疑いさえしたが、それも無いようだ。安心したような、困ったような気持ちになった。


 金曜日の年末最後のゼミには、エリカもさすがに出席した。さすがに、それを無断欠席するのはやりすぎだ。授業は授業である。でも、南雲先生の顔を見るのが少し億劫だったのは事実だ。

 いつも通りのゼミだった。男子二名と女子一名、具体的には、斎藤敦也あつやと平坂かく、横尾翠の三名の進捗報告があり、先生と大学院生を含めた議論があった。流石に、卒業論文提出まで一ヶ月と迫った年末のゼミだけあって、みんなの内容も随分と具体的になっていた。横尾翠については先生から幾つかの重要な指摘はあったものの、ほぼ卒業論文の仕上がりが見えてきていた。要領の良い学生なのだ。男子二名の内、一名、斎藤敦也については、かなり危険な状態で、南雲先生から、ちょっと歯に衣着せぬ言葉が飛んでいた。

 事前に相談相手になっていた北上雄一郎先輩が助け舟を出したりしていたが、卒業論文は結局のところ自分自身でやらないと進みようがない。それは、エリカも身に沁みて理解し始めていることだった。他人事ではない。

 その緊迫したムードの中で、鴨井ヨシヒトが相変わらずの空気の読まなさで、追い打ちのような発言をしたりするものだから、四回生の男子三人と鴨井の間で巨大化する亀裂が目に見えるようだった。鴨井ヨシヒトと言えば、時々、エリカをチラ見してくる怪しい行動も健在であった。


 南雲先生のエリカへの態度は何も変わらなかった。ゼミが終わり、荷物をまとめていると、先生の方から声を掛けてきてくれた。

「下吹越さん、昨日は来なかったね。何かあったの?」

「あ、すみません。ちょっと体調が芳しくなくって、昨日は家で休んでました」

 体調が芳しく無かったのは嘘じゃない。理由までは言っていない。


「そっか〜。大丈夫? 冷えるからねぇ。健康第一だよ。……今からの時間は空いてるけど、質問とかあれば相談に乗ろうか?」

 いつも通りの笑顔で南雲先生がエリカに声をかける。エリカはその優しい声にドキリとする。でも、今日は教授室に立ち寄る気分にはなれない。


「あ、大丈夫です。少し、今日は用事があるのと、相談内容は一色先輩に聞いていただいて、大体疑問は晴れましたので」

 エリカがそう言うと、南雲教授は「そっか」と満足げに呟いて、「何かわからないことがあったら、僕は二十八日までは大学にいるから、遠慮なく質問に来ていいからな」と言ってゼミ室を出ていった。


 エリカは、結局、一度も、南雲先生と目を合わさなかった。


「あの、下吹越さん。年末にね。イベントがあるんだけどね……」

 意を決したような顔で鴨井ヨシヒトが声をかけて来たが、

「あ、ごめん。用事あるから帰るね!」

 と、下吹越エリカは最後まで聞くこともなくゼミ室を出た。なんだか、また涙腺が緩んできていて、そのままゼミ室にいるのは危険だった。


 結局、年末は一度も先生の部屋には行かなかった。予定していた里帰りの日程を前にずらして、逃げるように鹿児島へと飛んだのだ。


 そして、今は、畳の万有引力に引かれながら、こたつで寝ている。






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