少しだけお時間もらってイイですか?

 一年最後の月、師走も中旬になり、街も気忙しく、大学の中も何かと気忙しくなる。後期セメスターの授業も佳境に入るとともに、卒業論文の締め切りが年明けに迫ってくるこの季節は、大学教授が最も忙しくなるシーズンの内の一つだ。まさに師走である。


 南雲教授室には先客が居た。来客対応中だと分かったエリカが十メートル程先にのベンチで待っていようとしたところで、部屋の中から微かな話し声を漏れ聞こえてきた。

 南雲先生の声と、もう一つの声は、明らかに若い女性の声だった。よくは聞こえないのだが。


『でも、先生……………………ですよね?』 


 緑色に塗装された扉越しに聞こえてくる声は、女性の声だということは分かっても、誰の声かは判別出来ない。


(……誰だろう?)

 

 少し気になる。業者の人や大学の先生との打ち合わせという訳でもなさそうだ。何だかカジュアルに打ち解けた様子。

 相手が学生だとすると、横尾よこおみどりなど南雲ゼミの他の学生が考えられるが、先生は学生と議論をする際には、この二階の教授室よりも四階のゼミ室の方を好む。


(……ま、仕方ないし、待つか)


 エリカは扉から身体を離すと、少し先のベンチまで移動した。ベンチの上にトートバッグとキャリングケースを置くと、その上にシュークリームの入ったコンビニ袋を乗せる。羽織っていたチェスターコートを脱ぐとそれを膝の上に置いてベンチに腰を下ろした。

 

 スマートフォンを取り出して時間を見ると丁度午後二時半になろうとしていた。スマートフォンをトートバッグの中に戻すと、エリカは読みかけの本を取り出す。ネットワーク科学の最近の話題についてまとまっている本だ。この著者の別の本が大変良かったのでこちらも、と図書館から借りてきた。


 十分ほど経った頃にふと目線を上げると、ちょうど教授室の扉が開くところだった。お客さんが帰られるところのようだ。エリカは読んでいた本に栞を挟みバッグの上に置くと、コートを腕に抱いたまま立ち上がった。

 南雲教授が先に出てきて、部屋の中の女性と話しながら、内向きに開いた扉を抑えている。その前を通って、部屋の中から一人の女性が出てきた。


 その女性はスラッとした体躯でスタイルが良く、グレーのオフタートルネックのニットに濃い紺色のスリムなジーンズを穿いていた。バッグとコートを両手で身体の前に持っている。南雲教授の顔を少し下から覗き込むように何かを話しながら、するりと教授室から滑り出た。


 南雲教授は扉を閉めながら、女性の顔を見つめて、愉快そうに言葉を返していた。妖艶な雰囲気を漂わせたその女性は、話しながら、左指でその美しい長い髪を耳に掛けるように流す。白い綺麗なうなじがオフタートル・ネックのゆとりある襟元から覗いていた。

 顔は見えないが、その雰囲気、動きは、エリカがよく知っている人物のものだった。


「……ケイコ?」


 思わず、エリカの口からその人物の名前がこぼれ出た。


 柊ケイコは、その声に気付き、振り返った。南雲仙太郎もそれを追い、ベンチから中腰になって立ち上がり掛けている下吹越エリカに気付く。


「あ、エリカじゃん。わー、久しぶりっ! そんなところで何してるの?」


 ケイコは久しぶりに会う親友に屈託の無い笑顔を向ける。「何しているの」と言われると、エリカも、一瞬、何と答えたものかと考えてしまう。また、以前、柊ケイコからは「あまり、教授の部屋に行きすぎないように」と注意されていることも思い出したりする。

 正直なところ、「何しているの」と聞きたいのはエリカの方である。柊ケイコが南雲教授と二人っきりで、教授室で何を話していたのだろう?


「えっと……、うん。ちょっと、先生に卒業論文のことで、報告と相談をしたいことがあって」

 そう言って、南雲教授に見えるように、エリカはベンチに置いたピンクのキャリングケースを持ち上げて見せた。これで、南雲先生ならエリカの用件が分かるはずだ。


「あ、そうなんだ」

 そう言って、柊ケイコは微笑みながらエリカと南雲教授の顔を見比べた。

「……で、……ケイコは……何を?」

 エリカは自然な質問に聞こえるように、口元に笑みを浮かべながら尋ねた。


「ん? 私? 私は、ちょっと相談があって〜、……ねっ! 先生?」

 そう言うと、ケイコは意味深っぽく、上目遣い気味に南雲教授の方を覗き込んだ。


「……ん? ああ、まぁ、そうだな。相談だな。うん、完璧に相談だ」

 少しケイコに威圧されるようにながらも、南雲仙太郎はケイコの言葉を認めるように笑顔で頷いた。なんとなく、それ以上、立ち入るのは良く無さそうだ。


 エリカはトートバッグも手繰り寄せて立ち上がる。

「あの? 先生、今から時間あります?」

 右手許には二人分のシュークリームが入ったコンビニの袋もある。


「あー、悪いね、下吹越さん。今から、会議なんだ。……それから、その後は、ちょっと駅前の方に出て、外部の先生と会食で。すまないが、今日はちょっと時間を取れそうにないよ。明日も厳しいし……。明後日、以降でいいかな?」

 南雲仙太郎はポケットから教授室の鍵を取り出して、鍵穴に入れる。ガチャリとシリンダーキーの締まる音がする。


「そうですか……。わかりました。はい、じゃあ、明後日また来ます」

「すまないな。悪いけどそういうことでよろしく」

 下吹越エリカが微笑むと、南雲仙太郎は申し訳なさそうに右手を挙げて応えた。そして、ケイコにも「じゃ、ここで」と一言添えると、南雲教授は足早に廊下の向こうへと歩いて行く。そして、階段のところで曲がり、教授は姿を消した。


「エリカ、一緒に帰る? お茶でもする?」

 柊ケイコは手に持っていたコートに腕を通すと、いつもと何も変わらない調子で、エリカを誘う。ケイコと会うのが久しぶりなのは確かだし、本当は積もる話もあるのだが、エリカは何故だか、そんな気分になれなかった。


「ごめん……。ちょっと、ゼミの先輩に相談しないといけないことあるから、今日はやめておくね」

「そう? じゃあ、私は帰るね。ま〜、ホント、卒業論文も根を詰めすぎないようにね。エリカは真面目すぎるところあるんだから」

 ちょっと心配そうにしながらケイコが言うので、エリカは「ありがと」と返した。柊ケイコは「じゃあね」と手を振って去っていった。


 四階のゼミ室に立ち寄ると、中には数名の学生が居た。男子三名、つまり、鴨井ヨシヒト以外の男子全員が、何やら大学院生の北上雄一郎先輩に相談をしているようだった。卒業論文についての話だろう。

 エリカのお目当て、一色ユキエ先輩はゼミ室の中央に鎮座するミーティングテーブルの一角で机に向かっていた。何か論文を読んでいるようだ。しかし、エリカが部屋に入って来たのに目敏く気付いて顔を上げる。


「あら、下吹越さん、どうしたの?」

 淡い色合いのセーターに身を包んだ一色ユキエは、柔らかい口調で下吹越エリカに声をかけた。

「あの……、やっとプログラム出来たので、見てもらえます?」

「もちろん! ……でも、完成した割には、なんだか元気無さそうだけど、何かあったの?」

「いえ、大丈夫です。ちょっと、外が寒かったので……疲れたんだと思います」

 エリカはふるふると首を振る。


「そう? 何か困ってる事があったら言ってね。出来る範囲では力になるから」

「ありがとうございます」

 そう言うと、一色ユキエは、下吹越エリカに自分の隣に座るように、促した。エリカは荷物をミーティングテーブルの上に置いて、その席に座った。キャリングケースを開けて、パソコンを取り出す。その間に、机の上に置いたコンビニ袋の存在に自分自身でふと気付く。


「あ……、先輩。 シュークリームとか好きですか?」

 一瞬、何のことだろうと一色ユキエは眉をひそめるが、エリカがコンビニ袋から取り出した二つのシュークリームを見ると、相好を崩した。


「もちろん!」

「じゃ、食べます?」

「いいの?」

「はい。いつもお世話になっているお礼です〜」

 エリカがそう言ってシュークリームを一つ差し出すと、一色ユキエは「先輩業も捨てたもんじゃないわね」と冗談ぽく笑ってみせた。


 シュークリームを美味しそうに食べる一色先輩を見ながら、下吹越エリカの胸はチクリと傷んだ。本当は、そのシュークリームは一色先輩のために買ったものでは無かったのだから。

 

(今度は、ちゃんと、お世話になっている先輩に何かをプレゼントをしよう。きっと、少なくとも卒業までには……)

 エリカはそう思いながら、自らも袋を開け、シュークリームを頬張るのだった。


 そのシュークリームは評判通り甘くて美味しかった。

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