分厚いレジュメでイイですか?

「では、下吹越エリカの卒業論文に関して、現状での研究進捗報告をさせて頂きます」


 ゼミ室にいる全員が、下吹越エリカのレジュメの厚みに驚いている。


「――よろしく」


 組んだ膝の上、左手に持ったA4のレジュメから顔を上げて、南雲仙太郎がGOサインを出した。


 年末、クリスマス前、ホテル・グランジュールでの目撃事件までの期間はエリカもよく頑張っていた。でも、その成果を南雲先生に紹介することは結局年内には出来なかった。

 ホテル・グランジュールでのショックで一時は気力を失ってしまっていた。どうしてもプログラミングや、執筆といった類の作業をする気にはなれなかった。それでも、卒業論文に関する彼女の努力が完全に停止していたわけでは無い。寝転びながらでも出来る学術書や論文の読み込みは特に速度を緩めることなく進めていた。

 

 鹿児島の同窓会で、上村純子に自分の思いを指摘され、自分自身で認識してからは、吹っ切れた。エリカは同窓会の次の日、一月四日からは鹿児島の自宅で、卒業論文の作業の続きに取り組みだした。年末に作ったプログラムを使ってデータを揃え、先行研究の見よう見真似で分析を進めていった。


 「なりうぇぶ」で疑問に思ったことは、個人的に「ぼよよよ~ん」さんにメッセージを送って聞いたりもした。「ぼよよよ~ん」さんはエリカ(上方カリエ)が「なりうぇぶ」を卒業論文の研究課題にしていることには驚いていたが、エリカの質問には快く答えてくれた。「ぼよよよ〜ん」さんの「なりうぇぶ」歴は長かった。


 また、年明けから、更に超高速でプログラムの勉強を追加して、南雲先生に指示されていなかったデータ取得にも取り組んだ。このことは誰にもまだ話していない。


「まず、研究目的を確認したいと思います。十一月のゼミで決まったことですが、暫定的ではありますが、私の研究テーマは『小説投稿サイトにおけるソーシャル・ネットワークのネットワーク分析とインセンティブ・メカニズムがそれに与える影響の解析』という、とてもになっています」


 エリカが「長〜い」のところを茶目っ気たっぷりに強調して言うと、一色ユキエ先輩が口許を押さえてクスリと笑った。南雲教授も「長くてゴメンね」と苦笑気味に相好を崩す。さっきまでの緊張した雰囲気が少し和らいだ。表情が硬直させて俯いていた横尾翠も、顔を上げる。


「この『小説投稿サイト』というのは、具体的には、日本において一つのWEB小説文化の発信源になっている小説投稿サイト『小説家になりたくてWEBっ!』、通称『なりうぇぶ』のことを指しています」


 早速、鴨井ヨシヒトが右手を挙げて

「他にも投稿サイトはあると思うんですが? 『カクカクシカジカ』とか『オールスターズ』とか『ベータシティ』とか?」

 と質問してきたが、

「あっ、今回の研究対象は『なりうぇぶ』に絞っています。あとのサイトはまとめて今後の課題ってことになると思います」

 と素直に返した。鴨井は満足気に「わかりました」と答えた。

 南雲先生が「続けて」と促す。


「まず、ソーシャルネットワークとしての『なりうぇぶ』をネットワーク分析するためには、ユーザ間のフォロー関係を調べるのが基本になります。『なりうぇぶ』には現在百万人以上のユーザが居ますが、その全てのユーザのフォロー関係を取得するのは現実的には困難でしたので、本研究では一定の手続きに従って、その部分集合としてのユーザ群を取り扱うことにします」


 大学院生の北上雄一郎が「一定の手続きって言うのは?」と確認するように聞く。

「えっと、ユーザ情報を集める手続きについては、レジュメ3ページ目に書いているので開いて見てください」

 他の四回生達も、パラパラとA4のレジュメを捲る。「対象と方法マテリアル・アンド・メソッド」の章には、ユーザ情報を集める手続きプロシージャが、番号付きの箇条書きで示されていた。


「ユーザ情報の収集自体は『なりうぇぶAPI』を用いて行います。『なりうぇぶAPI』というのは、『なりうぇぶ』が提供しているAPIで、特定のパラメータをURLに付与することで、特定のユーザに関する情報を返してくれます」


 男子生徒の一人、平坂ひらさかかくが興味深そうに、「へ〜」と、レジュメと下吹越エリカの顔を見比べた。多分、四回生の中で一番IT技術に関して関心を持っているのは平坂だろう。感心してもらえたのは嬉しいが、このAPIだって、ホントは南雲先生に教えてもらったのを見よう見真似で使っただけである。


「ただし、手作業で一つ一つのユーザ情報を取っていくわけにも行きませんし、得られるデータも、そのまま表計算ソフトとかで扱うには、形式的にも量的にも大変なデータなので、これをPythonパイソンから実行できるようにしました。馴染みの無い人も多いかもしれませんが、Pythonパイソンは最近人気のプログラミング言語で、あの二回生のプログラミング演習で学んだ、みんなが嫌いなC言語よりも、十倍くらい簡単にこういうプログラムを作ることが出来ます」


 エリカがC言語のことをちょっとディスると、御幸みゆき夏子なつこが手を叩いて喜んだ。相当、恨みがあるらしい。平坂がさらに感心したように発表しているエリカの顔を見る。平坂も何かプログラミングをしているとかいう話を、前期のどこかで聞いたことがあることをエリカは思い出した。

 もしかしたら、平坂もPythonパイソンを使ったことがあるのかもしれない。

 とりあえず、エリカは説明を続ける。まだまだ、序盤なのだ。


「このパイソンのプログラムで『なりうぇぶAPI』を繰り返し使うことで、『なりうぇぶ』のデータベースからユーザデータを取得しました。ネットワーク分析が十分できる程度のユーザ数だけ、データ取得を行いました。ちなみに、ここを自動化するところと、返ってきた結果を処理する部分には、結構、手間取りました……」

 エリカはそう言って苦笑いを浮かべて、首を傾げて見せた。


 他の四回生の間にも、あからさまに「なんか大変そうだ……」という空気感が立ち込める。その苦労を推し量ってか、一色ユキエ先輩はミーティングテーブルの逆側で「うんうん、よくやった」と頷いた。


 しかし、その空気感が癪に障るのか、女性陣の最後の発表者になる予定の成沢サクラが小さく手を挙げて尋ねる。

「それで、『ネットワーク分析が十分できる程度のユーザ数』ってどれだけなんですの? つまり、下吹越さんは、どれだけのユーザ情報を集められたんですの? 百ユーザ? 千ユーザ?」

 成沢サクラは右手の人差し指を立てて、少し意地悪そうな笑顔を浮かべて質問をする。


 下吹越エリカは、そんな成沢サクラの方を見遣り、一つ首を傾げると、小さく首を振って「いいえ」と言うと、ニコリと笑って唇を開いた。


「十万ユーザです」


 ――十万ユーザ!?


 総合C棟三階、南雲ゼミ室の一同に衝撃が走った。

 ただ一人、南雲仙太郎だけは、自らの弟子の発言にニヤリと、口角を上げた。

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