発表を始めてもイイですか?

 一月十二日の金曜日の夕方、上叡大学・東山キャンパス総合C棟4階の南雲ゼミ室では、合計一三名の大学生、大学院生と教員がミーティングテーブルを囲んでいた。


「ではそれで、あとはアンケート対象者をさっき言った条件で五十名ほど増やしてデータをまとめたら執筆してください。くれぐれも検定のやり方は間違えないようにね」

「わかりました。……ありがとうございます」

 南雲教授の指摘に、横尾よこおみどりは少し辛そうな顔をしながらペコリと頭を下げた。


 あと二週間半の残り時間で、執筆までに五十人のアンケートを取るのはなかなか大変だ。何事もそつのない横尾翠だったが、最後に来て、アンケートを取るぐんの設定に甘さがあったことが顕になった。このままでは、そもそも卒論で扱おうとしていた問題が、全く扱えていないことになってしまう。その点を、南雲先生に指摘されたのだ。実は、十二月のゼミでも横尾翠は同様の指摘を受けていたのだが、どうやら「まぁ、これでもなんとかなるんだろう」と甘く考えていた節が見受けられた。

 一色ユキエは「残念だけど、彼女も自業自得ね……」と、下吹越エリカの耳元で囁いた。


 全員発表会が始まって既に四時間が経過していた。時計の針は午後五時を回っている。流石に大学院生の二人、一色ユキエと北上雄一郎でさえも疲労の色を隠せない。いわんや卒業論文の当事者達をや、である。


 これまでに合計七名が発表し、あと三名になっていた。下吹越エリカと、鴨井ヨシヒト、そして、女性陣で唯一大学院進学を決めている成沢サクラだ。どうやら発表順は「卒業論文が危ない学生順」だったようだ。


 特に、冒頭の斎藤さいとう敦也あつやと中村メイの発表は厳しかった。それぞれ、男子と女子で、最も卒業論文の進みが悪い学生だ。早い話が、この一年間、ちゃんとやってこなかったのだ。この二人に対する、南雲先生の突っ込みは凄惨を極めた。大学院生の二人がブレーキをかけなければ、南雲先生はどこまでも突っ込んでいったし、この二人は本当に卒業出来ないんじゃないかと、下吹越エリカも気が気じゃ無かった。最終的には、基本的なテーマまで課題を簡素化し、それぞれに北上先輩と一色先輩が指導につくことで、手を打つことになった。


「でもな、斎藤、中村。最低限の『学問』が出来ないんじゃ、卒業資格は出ないからな。ラスト二週間半は真剣に取り組むこと。わかったな」


 南雲仙太郎の言葉は重かった。斎藤も俯きがちに「ハイ」と言い、中村はまた泣いていた。そのタイミングでは、中村の含まれる仲良し三人組のリーダー格の横尾翠が「よしよし、メイなら出来るよ」などと、あやしていたのだが、その二時間後に自分自身の発表がこんなにも炎上するとは、そのタイミングでは横尾翠自身も、想像だにしていなかったのだろう。


 横尾翠が発表者のお誕生日席から自席へと戻ってきた。女子三人組の中では、この一年間、横尾が一番そつなくこなして来ていたのだが、最後に油断をしてしまった格好だ。リーダー格の面目丸つぶれかもしれない。もう一人の御幸みゆき夏子なつこの発表の方が、あっさりと終わっていた。


「じゃあ、次、下吹越さん、行けますか?」

 南雲先生が声をかける。下吹越エリカは「はい」と静かに返事をした。


(ここで呼ばれたか……)


 残り二人の成沢サクラと鴨井ヨシヒトは共に大学院進学予定だ。それゆえに特別に最後に残したということだろうか。ちらりと斜め前を見ると、成沢サクラが左手で小さくガッツポーズをしていた。なんとなく心境は分かる。


 成沢サクラは優秀な学生だ。下吹越エリカと変わらないくらい学部の成績も良い。でも、多少、競争意識が強すぎる面があり、ゼミの中でも、どうも下吹越エリカをライバル視するところがあった。友人としてエリカとの仲は悪くは無く、少なくとも表面的には仲良くしている。ちなみに、成沢サクラと横尾翠は犬猿の仲であり、そこを取り持つのが、このゼミの人間関係におけるエリカの重要な役回りだった。


 そんな成沢サクラが、卒業して就職する予定の下吹越エリカより、大学院に進学する自身の方が卒業研究において優秀でありたいと思っていることは、ここ数ヶ月の間でも言葉の端々から伝わってきていた。そんな中での全員発表会だった。


 本日の発表順が、南雲先生の考える「卒業論文が危ない学生順」であることは誰の目から見ても明らかである。後半に向けて、明確にレベルが上がってきている。つまり、ここで下吹越エリカの方が先に呼ばれたということは、現時点で、成沢サクラの卒業論文が下吹越エリカのものよりも「危なくない」つまり「優れている」と南雲先生が考えているであろうことを意味していた。

 成沢サクラとしては、胸のすく思いであったろう。


 下吹越エリカとしては、流石にそろそろ発表してしまって楽になりたかったので、先に発表を回して貰えるのは逆に嬉しかった。双方にとってこの順番が良かったということだ。


 下吹越エリカは、ミーティングテーブルにおける、いわゆるお誕生日席に移動した。移動する中で『あ、教授のご贔屓が出てきたぜ』と囁く男子の声が聞こえた。ハッとして振り返ったが、四人の内で誰が言ったのかは分らなかった。


(やっぱり、ケイコの忠告は正しかったのかもね。……ゴメンね無視して)


 と、親友の忠告にをきちんと取り合わなかったことに心の中でちょっとだけ詫びた。こうなったら、先生に最も時間をかけて指導してもらった学生として、しっかりした姿を、ゼミの皆にも、ひいては学部の皆にも見てもらうしかない。それでしか、あの教授室での時間が、正当な研究指導であったということを認めてもらう方法は無いのかもしれない。

 エリカは発表者席に座ると、準備してきたレジュメを配布した。左上がホッチキス留めされたA4サイズのレジュメだった。

 これまでの他の学生たちのレジュメはA4サイズで四、五枚程度だった。多かった横尾翠でも十枚だ。これに対して、下吹越エリカのレジュメの枚数は全ページカラー刷りで二十枚を超えていた。


 そのレジュメを受け取った成沢サクラがピクリと反応したのを、エリカは視界の端に捉えた。成沢サクラのレジュメの規模感や内容量がどうなっているのかは知らないが、年末までの進捗状況から考えても、これを超えてくることは無いだろう。 

 全員にレジュメが行き渡り、南雲教授が組んだ足の上でエリカのレジュメを持ち、エリカに目配せして「どうぞ」と言ったのを確認すると、エリカは自分のゼミ発表を開始した。

 

 南雲仙太郎が下吹越エリカにした目配せは、他の学生にしたそれよりも、ほんの少しだけ優しい感情を含んでいるようにも見えた。そして、その調べはエリカには先生が「おかえり」と言ってくれているようにも聞こえた。


「では、下吹越エリカの卒業論文の現状での研究進捗報告をさせて頂きます――」


 エリカはミーティングテーブルの向こう側へと視線を上げた。

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