ご飯に誘ってイイですか?

 小高い丘の上に立つ上叡大学東山キャンパスの総合C棟を西の空から差す日の光はもはや無くなり、総合C棟の壁面は闇に黒く塗られている。ただキャンパスの歩道に立つ街灯が、建物の壁面を仄かに照らしていた。


 キャンパスの構内道路から見上げると、在室しない教授の部屋の窓は暗く、在室する教授の部屋の窓からは煌々と光が漏れていた。

 二階の教授室の並びの一つ、南雲仙太郎教授室の窓からは明るい蛍光灯の光が漏れる。構内に植えられた樹木の一つにとまる鳥の視点からは、大人の男性と、若い女性の姿が見えていた。


「まぁ、そんな感じかな。僕がラノベを書き始めた理由っていうのは」


 そう言って一息つくと、未恋川みれんがわ騎士ないとこと南雲仙太郎教授は取っ手に指を入れて持ち上げたマグカップからミルクの入ったアールグレーを啜った。


 正直なところ、下吹越エリカは当惑していた。


 思っていたより南雲教授が小説を書き始めた経緯が真っ当だった。大学の先生が四十歳が迫ってから再び少年の時の夢を追い出すというのは珍しいと思うが、一人の人間の心情の動きとしては十分に理解可能だったし、もっというなら、なんだかいい話だった。

 これまでのノリから、もっとどうしようもないような、溜息をつかないといけないような話を無意識に期待してしまっていた下吹越エリカは、すこし先生を見直したような、勝手な偏見を持って申し訳なかったような気持ちがした。


(でも……)


 その「いい話」にあわや流されそうになるが、下吹越エリカは自分のした初めの質問を忘れていない。

 そもそもの質問は、南雲教授が小説を書き始めた経緯についてではない。問題は、そんな南雲教授がになった経緯なのだ。


「先生……。小説を書き始めた理由は分かったんですが……、その……、ああいう、エッチなライトノベルを書かれるようになった切っ掛けとかは……、何なんでしょうか?」


 本棚の前に立つ下吹越エリカは、三メートルほど先に座る南雲仙太郎を見遣る。

「あー、うん、……それね」

 質問を受け取ると、南雲仙太郎は再びオフィスチェアに沈み込み「うーん」と腕を組んだ。


 下吹越エリカの場所からは、オフィスチェアのリクライニングに沈み込む南雲教授の向こう側の窓ガラスが見える。もう、日は沈み、外は暗くなってきていた。窓ガラスは鏡のように薄っすらと、南雲教授の座る椅子とその前のパソコン、そしてそれを眺める彼女自身の姿を映し出していた。


 南雲仙太郎も、少しオフィスチェアを回転させて上半身を捻ると、下吹越エリカの視線を追って窓の外に目を遣った。

 知らぬ間に暗くなった空は、南雲に思ったより時間が経っている事を気付づかせた。入り口側の観葉樹の上に掛かっている壁掛け時計を確認すると、既に時間は六時を優に過ぎていた。


 やおら、


 ――きゅうぅぅ~


 微かな音だったが、なんとも言えない音がした。

 下吹越エリカは急いで下腹部を抑える。気づかれないように視線を泳がせるが、頬が少し紅潮する。そんなことをしても、二人しか居ない部屋だ。もし聞こえていたら、犯人は一瞬で推理されてしまう。

 ちらりと、南雲教授の方に視線を移したら、完全に目が合った。

 南雲教授はオフィスチェアから少し可笑しそうな表情を浮かべながら、下吹越エリカの方を見ていた。


「いい時間になってきたから、夕食でも一緒に行くか?」

 そう言うと、エリカの返事も待たずに、南雲教授は目の前の黒いノートパソコンの液晶ディスプレイ部分をパタリと閉じる。そして、机の脇に置いた腕時計を手に取ると左手首に巻き付けた。


「あ……聞こえちゃいました?」

「うん……聞こえちゃいましたよ」

「……すみません」


 下吹越エリカが恥ずかしそうに俯くと、南雲仙太郎は「生理現象、生理現象。問題ない、問題ない」と笑顔を浮かべた。

 裏表の無い無邪気な笑顔だ。


「丁度、僕も今晩は食べて帰る予定で、一緒に食べる相手も居なかったんだ。別に上等な場所に行く訳じゃないけど、続きは夕食でも一緒に食べながらでどうかな? まぁ、下吹越くんの予定が空いていればの話だけど……。どうかな?」


 思わぬ南雲教授の誘いに、下吹越エリカはコクリと頷いた。

 下吹越エリカにも今夜の予定は特に無かった。家に帰って、いつも通り自分でご飯を作ろうと思っていたところだ。特に、南雲教授と夕食を食べに行くのに問題は無かった。


 高いお店なら今月の家計的にしんどいかもしれないが、先生も「上等な場所じゃない」と言っているのだから多分大丈夫だろう。

 もっとも、その「上等な場所じゃない」というのも、女性を食事に連れて行く時に期待させすぎないための大人の社交的な謙遜表現かもしれない。実は学生にとってみたらとても上等なフレンチのレストランだったりした場合は家計的にピンチだ。

 まぁ、上等なフレンチなレストランとかだったら、それはそれで素敵な経験になるだろう。それに、もしかしたら先生が奢ってくれるのかもしれない。


 そんな考えが一通り頭の中を通り抜けていった後に、下吹越エリカは、南雲教授の誘いに応じて「大丈夫です。特に予定はないので」ともう一度頷いた。


「オッケー。じゃあ、善は急げだな。準備して」

「あっ……、ハイ」

 南雲仙太郎は早速立ち上がると、机の上に置いていたキーケースをズボンの左後ろのポケットに入れ、机の上のノートパソコンから電源アダプタと、拡張用液晶モニタへの接続ケーブルと、マウスの線を抜くと、ノートパソコンを革製のスリーウェイバッグに差し込んだ。机の上のいくつかの書類を鞄に入れると、その鞄をサッと背負い、準備を終えた。


 下吹越エリカも机の上に出していた卒業研究関係の資料をトートバッグに戻し、先生から渡された三冊の書籍を鞄の中に入れると、それを手に取って立ち上がり、テーブルの椅子を元の位置に戻す。

 教授室のドアに手を掛けた南雲仙太郎は「じゃあ行こうか?」とエリカに声をかける。下吹越エリカはコクリと頷き、部屋を出る南雲仙太郎に付き従った。


 二人が部屋を出ると南雲教授は左後ろのポケットに入ったキーケースから教授室の鍵を取り出すと、シリンダーキーに差し込んで回す。ガチャっという音と共に教授室の鍵がロックされる。


「お待たせ。じゃ、行こうか」

 南雲仙太郎の声に、下吹越エリカは無言で頷いた。


 教授と二人で夕食なんて、大学に入って初めてだ。しかも、相手は、たとえその中身が未恋川みれんがわ騎士ないとであろうと、学部のイケメン教授で名が通っている、あの南雲教授なのだ。


 柊ケイコがこれを知ったなら、きっと、「えー、いいな~」などと言いながらあらぬことまで詮索するのだろう。とはいえ、気になる話も途中だったし、お腹も減っていたし、下吹越エリカは、「まぁ、いっか」とあまりそういうことは気にしないことにして、南雲仙太郎の後を追った。


 外から見える総合C棟の教授室の並びから、また、一つ室内の光りが消えた。

 東山キャンパスは今日も、ゆっくりと、その一日を終え始めていた。

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