第五章 エロラノベについて
執筆の理由を聞いてもイイですか?
「南雲先生はどうしてエロラノベなんて書いているんですか?」
下吹越エリカの唇からポロリとこぼれ落ちた言葉は禁断の果実だった。
その言葉は、西日に紅く染まる南雲仙太郎教授室を、溢れ出る罪の匂いで鮮やかに満たした。
「書いてない」
南雲仙太郎が返した返答は、意外なものだった。それは完全な否定であった。
一ヶ月前に、あれだけのことがあり、下吹越エリカにそのことがバレたのは明らかなのに。下吹越エリカも、まさか、全否定が返ってくるとは思いもしなかった。
そう答える南雲仙太郎の瞳の奥には動揺の色も見えたが、それでも、南雲仙太郎は毅然とした態度で、はっきりと全否定を繰り出した。これには下吹越エリカも戸惑いを隠せなかった。
「え?……ウソっ」
「僕はエロラノベなんて書いていないぞ、下吹越エリカくん」
南雲が呼ぶ下吹越エリカの名前が不自然にフルネームになる。
「でも、……前に、この部屋に私が来たときに原稿があったじゃないですか……。その……『
「……あ、タイトル、フルネームで覚えてくれてたんだ。ありがとう」
エリカが「聖☆妹伝説」のタイトルを諳んじるだけで、先ほどまで真剣な表情で引き締まっていた南雲教授の顔が弛緩した。著者というのはいつも、自分の本に関して言及されることは嬉しいものなのだ。書籍のタイトルがフルネームで他人の口から出てくるだけで、ちょっと嬉しかったり、恥ずかしかったりする。
「……あ、いえ、どういたしまして……。……じゃなくって!」
エリカがタイトルを覚えていて南雲教授が喜んでくれたとはいえ、それは本題とは関係ない。今日は、「タイトルを覚えた程度のにわかファンが先生にサインをもらいに来ました回」でも何でもない。そう、今の問題は「何故、南雲仙太郎教授がエロラノベを書いているのか?」である。
「先生が、
下吹越エリカは元々の軌道に話を戻す。「一点確認しますけど」と、口許の少し先に立てた人差し指を軽く振る。エリカは南雲に事実関係を問い質しながらも、頭のなかでは一ヶ月前にこの部屋で起きたことを反芻していた。
不意の涙を零したあの日のことを。
「あ……、あぁ。その……、なんだ、大学の教授室で、その名前を出されるのは、あまり、シックリ来ないんだが……、まぁ、そういうペンネームの人は、……僕だ」
南雲仙太郎は、戸惑うように窓の方に少し目を泳がせながら、しかし、最後の一言だけは誇らしげに、その事実関係を認めた。自らが未恋川騎士であるという事実を。
「それで、未恋川騎士は『
「もちろんそうだ。第一巻、第二巻で累計十万部に到達する勢いの『
「じゃあ、やっぱり先生はエロラノベ作家なんじゃないですか?」
言質を取ったとばかりに下吹越エリカが追求する。
しかし、その下吹越エリカの攻撃を受け止めた上で、南雲仙太郎は堂々と否定の論陣を張り返し始める。
「それは違うぞ、下吹越エリカくん」
「何が違うんですか?」
下吹越エリカは、意味が分からずに上目遣いに斜向かいの南雲教授を凝視する。
すると、南雲仙太郎教授はトレードマークの黒縁メガネのブリッジを人差し指でクイッと持ち上げると、名探偵の推理さながらに続けた。
「確かに、私は未恋川騎士というペンネームで活動する作家だ。そして、『
なぜだか、自作ライトノベルの話になると、南雲仙太郎の発言には、ちょくちょく宣伝が挿入される。
「しかし、下吹越エリカ君。優秀な君でも、どうやら一つ大きな勘違いをしているようだ」
南雲仙太郎は椅子の背もたれに持たれながら言う。
「……なんですか?……勘違いって?」
下吹越エリカは怪訝そうに眉をひそめた。
短い沈黙を経て、南雲教授は左脚を右膝の上に組み替えて、その膝の上に両手を組んで乗せた。そして、厳かに沈黙を破る。眼鏡の奥の黒い瞳には真実を告げる微かな輝きがあった。
「……『
自信に満ちた南雲仙太郎の一言に、下吹越エリカは一瞬言葉を失う。
窓から差し込む西日が雲に遮られ、仄かに暗くなった教授室で、天井についた蛍光灯がチカチカっと点滅した。
下吹越エリカは頭の中で、自宅のベッドに寝転がって読んだ「
ニャンニャンいいながら主人公にやたら胸を揉まれるエルフのナターシャ、主人公に回復魔法を掛けるための魔法力を得るために主人公にキスをせがんでは「あんっあんっ」言う女魔法使い、無駄に頻繁に全裸にされる妹のカエデ……その他もろもろ。
(あれが、エロラノベじゃない……ですって?)
教授によって示された大胆な仮説に下吹越エリカは息を飲んだ。
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