第3話 試み
腫瘍の表面は正常と思われる皮膚に覆われているから、塗っても効果はないだろう。
となると注射か。
この部屋にある一番小さな注射器は1ml用だから、まずは0.1ml打ってみよう。
普通の抗癌剤は静脈の中に点滴をするのだが、このP-SEは直接触れた細胞に効くはずだから、腫瘍の中に注射してみるか。
大丈夫かなぁ……。
実習や実験で、動物に注射をした経験は何度もあるが、腫瘍に直接注射をするのは初めてだ。
それ以上に、この行き当りばったりの試みによっておこげがどうなるのか、どうなってしまうのか、全く予想がつかないだけに、不安で仕方がない。
でもこの思い付きの行為がもしかしたら、IPS細胞のように、人類にとって新たなる一歩になるかもしれないし、ってわけにはいかないだろうけど。
どちらにせよ、このままではおこげは死んでしまうのだから試してみるべきなんだ、と僕は自分の心に言い聞かせた。
いつも自分の手に散布している消毒液を脱脂綿に吹き付け、動かないよう手のひら全体で包み込むようにおこげをつかみ、その脱脂綿で腫瘍の表面を軽く擦って消毒した。
さて、次はいよいよ注射だ。
「おこげ、お願いだから動かないでくれよ」
P-SEを0.1ml吸い取った注射器を手に取り「おこげごめん、ちょっと痛いぞ」と言ってから腫瘍のど真ん中をめがけ針を突き刺した。
「キュッ」っと、針を刺した瞬間に悲鳴を上げたおこげ。
P-SEを注入している時も、圧力で痛いのか体をもじもじさせていた。
おこげをゲージに戻し、様子を見る。
やはり注射をしたところが痛いのか、背中の方を見ようとしきりに体を捻じっている。
「おこげ、大丈夫か? やっぱり痛いのか?」
おこげは僕に背を向けたまま「グルグルグルグル」と低い声を出している。
一分が経過、少し移動しては体を捻じる、それを何度も繰り返す。
三分経過、背中を見ようとすることは少なくなったが、まだ「グルグルグルグル」と低い声をだしている。
五分経過、頭を牧草の中に突っ込んで動かなくなった。
「どうした、おこげ! 大丈夫か?」
そう声をかけても、おこげは動かない。
僕はあわてて、おこげを抱き上げた。
おこげは目を丸くして? 口をもぐもぐ動かしている。
「なんだ、エサを食べていただけか。 驚かすなよ」
ゲージに戻すと、おこげは元気に動き出した。
どうやら突然死んでしまうような急性反応は起こらずに済んだようだ。
とは言え、どんな副作用がいつ起こるかもわからない。
僕はおこげのゲージをいつも目の届く範囲に置き、まるで好きな人の横顔を盗み見るようにチラチラおこげ見ながら仕事を続けた。
そして、おこげがじっとしているのを見かけると「大丈夫か? おこげ」と声を掛け、それでも動かない時は、ゲージを指でつついて生きていることを確かめた。
そんなこんなで、その日はほとんど仕事にならなかった。
本当はおこげを自宅に連れて帰って様子を見たかったのだが、実験動物の持ち出しは固く禁止されている。
そのせいで、帰宅してからも気が気ではなく、あまりよく眠れなかった。
翌朝、僕は出勤するや否や「おはよう、おこげ、大丈夫か?」とゲージの中を覗き込んだ。
かき集めた牧草の中にじっとうずくまり、全く動こうとしないおこげ。
「どうしたんだ、おこげ!」
やはりP-SEの副作用がでてしまったのだろうか。
急いでゲージの蓋を開け、おこげを抱き上げた。
手の中で、小さく震えているおこげ。
少し熱もあるようだ。
「ごめんな、僕のせいで」
腫瘍の周りが赤く腫れあがり、炎症を起こしてしまっている。
特に中央部は強く腫れていて、皮膚が薄くなり突っ張ってしまっている。
「これは……」
もしかして、化膿してしまったのか……。
「ああっ、P-SEには表皮ブドウ球菌が入っているのだから、化膿してあたりまえか。僕はバカだ……。ごめんおこげ、本当にごめん」
どうしよう……。
子供の頃、手の指の周りが化膿した時は、父親に針で穴を開けられ膿をしぼり出された。
とりあえず、切って膿を出してみようか。
でも、そんなこと獣医でもない自分にできるのだろうか。
動物病院に連れて行ってやればいいのかもしれないが、他の人に見つかれば、おこげは間違いなく処分されてしまう。
「ごめん、おこげ。やっぱり最後まで僕がやってみるよ」
僕は決心し、おこげを抱き上げて腫瘍の周りを消毒、注射器につけた太めの針の先端で一番腫れている中央部の皮膚を「えい!」っと5mm程切り開いた。
おこげは一度だけ「キュッ」と鳴いたが、暴れる元気もないのか、手の中で震えている。
切り口からは黄白色の膿が流れ出てきた。
消毒液を染み込ませた脱脂綿で圧迫しながら拭き取ると、膿とともに、黒い組織が付着してきた。
「なんだこれ?」
これが何なのか調べてみたいが、今はそれどころじゃない。
膿を出したおかげで、腫瘍周囲の腫れもましになり、中央部は少し凹んでいるようにも見える。
僕はいったんおこげをゲージに戻し、様子を見ることにした。
「おこげ、頼むからよくなってくれよ。おまえがいなくなったら、また僕は一人ぼっちになってしまう。それに、病気や寿命じゃなくて、僕のせいでおまえが死んじゃったら、きっと強烈な罪の意識と自己嫌悪に苛まれてしまうよ。なぁ、おこげ頼むよ。頼むから元気になってくれ」
そう声をかけたが、おこげはうずくまったまま全く動こうとはしなかった。
もしかしたら、もうダメかもしれない。
僕のせいで、おこげが……。
このまま腫瘍が大きくなっていったとしても、もう少しは長く生きられたのに。
なんとかしてやりたい、そう思うのだが、僕にはもう打つ手がなくなってしまった。
僕は致し方なく、おこげのゲージを目の前に置き、毎日のルーティーンワークに戻ることにした。
昨日から仕事が溜まりはじめ、このままでは研究スケジュールをこなせなくなってしまう。
目の前の元気に動き回るスキニーギニアピッグたち。
今まで実験対象としてしか見ていなかったモルモットがそれぞれ大切な命を持っていることをおこげのせいで意識するようになり、以前に比べ可愛く思えてしまう。
これは人間としては当たり前のことで大切なことなのかもしれないが、大量の動物の命を必要とする研究者にとっては大きなストレスを生んでしまう可能性もある。
そのバランスが難しい。
そして今日は、彼らの元気の良さが羨ましく「お前たち、少しずつおこげにその元気をわけてやってくれよ」そう言わずにはいられなかった。
手を休めるたびにゲージをのぞき込んでは「おこげ大丈夫か?」と声を掛けた。
午前中はほとんど動かずじっとしていたおこげだが、午後には少し移動するようになり、夜には水も飲みだした。
このままなんとか回復してくれよ。
それだけを願って、僕は夜の研究室を後にした。
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