第66話 気持ち

 御影さんに「ちょっと母のところに行ってきます。明日、仕事がお休みなので、一晩泊ってきます」そう言い残して部屋を出た。


 御影さんと一緒だと、たぶん……、感情を抑えきれなくなってしまう。




 部屋に入ると、母はベッドテーブルに右肘をついて、雨が降る窓の外をぼんやりと眺めていた。


 子供の頃、母はよく「雨の日はお客がこないのよ」そう言って、お酒を飲みながら窓の外を眺めていた。


「お母さん」


 声をかけ、ベッドサイドの椅子に座った。


 振り向いた母が、あらっ、という表情をした。


「今日は、ちょっと私の話を聞いて欲しくて……」


 そう言うと母は「飲みながらでもいいでしょ?」とたずねるように左肘をついて、気怠そうに微笑んだ。



「私ね、今日御影さんに、アメリカに一緒に行かないかって誘われたの。私、ついて行っていいのかな?」


 母は、愛想笑いをするかのように口角を上げ、ゆっくりと瞬きをした。


「私……、気付いた時には、自分の感情をコントロールできないくらい、御影さんのことを好きになってしまってた。男なんて、自分の生活を支えるために利用すべきものだと思っていたのに。お母さんが、そうしてきたように。でもね、御影さんはどこまでも純粋で、こんな私のことをこれっぽっちも疑わなくて。私のやることなすこと全てに感謝をしてくれて、私のことを好きになってくれた。好き、ってなんだろう。人を好きになるってどういうことだろう、そう思ってきたけど、これがそうなんだ、って」


 母は眠そうに瞬きをしながらも聞き続けてくれている。


「でもね、お母さん。私の友達にすごい子がいるの。玲奈ちゃんっていうんだけど。玲奈ちゃんは、すっごく頭がよくて、頭の回転も速くって、人の気持ちがわかる優しい子で、リケジョのアイドルって言われるくらい可愛くて、スタイルも良くて……。その上、私と違ってちゃんとした恋愛ができる女の子なの。だから私、御影さんをとられてしまうんじゃないかとすごく怖くて……」


 母は時々大きなため息をつき、まるでおとぎ話を聞くように耳を傾けている。


「私はやっぱり、エッチをすることができなくて。


 だから御影さんは時々私の部屋から出て行くの。


 御影さんは自分の部屋に行くって言っていたけど、もしかしたら今、玲奈ちゃんと会っているんじゃないか、玲奈ちゃんと何かをしているんじゃないか、もうこのまま戻って来ないんじゃないか、そう思うと心臓が張り裂けそうになって……。


 だって私には玲奈ちゃんに勝てるものが一つもない。

 容姿も頭も若さだって……。


 そんな時に、あの写真を見てしまった。

 御影さんと玲奈ちゃんが楽しそうに手を繋いでいる写真。


 玲奈ちゃんは正々堂々と向き合ってくれている。

 御影さんを縛り付ける権利は、御影さんを満たしてあげられない私には、ない。

 だから、誰も悪いことはしていない。


 でも私は悲しくて、すごくすごく悲しくて、とめどもなく不安になって……。


 本当にもうどうしたらいいかわからなくて。

 少しでも自分に自信をつけたくて、御影さんが作ったお薬を病院の先生に打ってもらった。

 それは確かに効果があって、少しずつ肌も髪も、体全体が若返っていくのがわかる。


 でもね、そんなことは何の足しにもならなかった。


 御影さんがいなくなったらと思うと、いつも不安でどうしようもなくて。


 だから御影さんが私の部屋から出られなくなったことは、すごく悲しかったけど、御影さんには本当に悪いんだけど、私は、嬉しかったの。


 御影さんがずっと一緒にいてくれる、私の部屋で御影さんが待っていてくれる。

 そう思うと毎日が夢のようで、何をしていても楽しくて。


 でもそれは私だけで、御影さんは想像できないくらい、とても辛い立場に立たされている。


 アメリカに行けば、きっと御影さんは、元通りの生き生きと研究をする、みんなに優しい御影さんに戻ることができる。


 でも、そんな御影さんを、今何しているんだろう? 何故今夜は遅いんだろう? 助手のあの綺麗な人とは何もないのだろうか? 玲奈ちゃんと会っていないだろうか? そんなことを考えながら毎日家で待ち続けられる自信がない。

 毎日、御影さんを笑顔で出迎える自信がないの。


 そんな私を見たら、優しい御影さんはきっと心配してくれる、御影さんに心配をかけてしまう。

 それは絶対にダメなの。


 御影さんは、世界中の人にとって絶対に必要な人だから、ちゃんと支えてくれる人と一緒にいるべきなの。

 玲奈ちゃんのような……。


 玲奈ちゃんなら、御影さんの悩みも理解してあげられる、直接仕事の手伝いまでできる。

 それに、玲奈ちゃんは御影さんのことを本当に愛している。

 御影さんにとって最高の人。


 御影さんには絶対幸せになって欲しい。

 幸せにならなくちゃいけないの。


 でもね、お母さん。


 私はやっぱり御影さんと一緒にいたい。


 一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、そして……、抱きしめて欲しい。

 でもそれは、御影さんにとって、我慢が必要で……。


 やっぱり私のような出来損ないは、人を好きになっちゃダメなのかな。


 ねぇ、お母さん、どうしたらいい? 教えて、お願いだから教えてよ……」



 気付くと、母の目から涙がこぼれていた。


 お母さんは、わかってくれているんだ……。




 翌朝、部屋に帰ると、御影さんは右手にお酒の入ったコップを持ったまま、ソファーで寝息をたてていた。


 コップをそっと御影さんの手から外し、寝室から掛布団を持ってきた。



 御影さんをゆっくりソファーに横たえて、背中から御影さんに抱き付いた。

 頭からすっぽりと布団を被る。


 御影さんの匂いがする。

 大好きな御影さんの匂いが。


 温かい。

 すごく温かい。


 もう少し、

 ほんのもう少しだけ、ここにいさせて下さい。






「御影さん、アメリカに行ってきて下さい」


 その言葉だけで、御影さんは、今までに見たこともないような、とても悲しい顔をした。


「ごめんなさい」


 一緒には行けないことを御影さんが悲しんでくれた、一緒に行きたいと本当に思ってくれていたのだ、そんなことを一瞬考えて安堵してしまう自分がいて、そんな自分に猛烈に腹が立って、一緒に行けないことが悲しくなって、御影さんの悲しむ顔を見てすごく悲しくなって、御影さんに泣きながら抱き付いてしまった。


 それでも御影さんはしっかりと抱きしめてくれて、背中を撫でてくれた。

 そして、耳元からは「どうして?」と、震える声が聞こえてきた。

 

 嗚咽のせいでうまく話せず、とぎれとぎれ言葉を綴った。


「母は、おかしくはなっているけど……、まだ私のことがわかるみたいで……。言葉もわかるみたいで……。あの施設の人たちはみんな母のことをよくわかってくれていて……。だから母を……、置いていくことも連れていくこともできないんです」



 それだけを御影さんに伝えた。


 待っていて下さい、とも、いい人を見つけて下さい、とも、言うことはできなかった。




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