第69話 おこげ
その日の午後、僕たちは凍結保存されていたおこげの病理解剖を行った。
本来なら、死亡直後に行うべきなのだが、僕の渡米を待っていてくれたのだ。
念のためバイオセーフティーレベル2の実験室を使用し、獣医師と病理学者の手を借りた。
僕にとって戦友のようなおこげ。
死んでしまえばもう痛みを感じないことは誰でもわかっている。
だが、おこげのおなかを切り開く時、目を閉じ眠るおこげの頭を電動ノコギリで切る時には、僕の胸に重い痛みが走った。
気付くとマシューも顔を歪めていて、アリアは目線を逸らしてしまわないよう力を振り絞り、全力でおこげを凝視していた。
腹腔内の臓器をくまなく確認したが、癌はおろか特別な異常は何も見られなかった。
肺や気管支、口腔内、やはりどこにも異常はない。
心臓にも心筋梗塞などを起こした痕跡はなく、脳内の出血や梗塞も見られなかった。
全体的に見ても、所々アトロフィーを起こしているような印象を受けただけで、直接の死亡原因になりそうな所見はどこにも見当たらなかった。
各臓器をそれぞれ今後の研究に役立てられるように保存した後、獣医師の先生ができるだけ元の形になるよう、切り開いたおこげを縫い合わせてくれた。
「ごめんなおこげ。今日まで本当にありがとう。ゆっくりと安らかに眠っておくれ」
手を合わせ、目を閉じて、そう心の中でつぶやいた。
目を開けると、皆が僕にならって、おこげに手を合わせてくれていた。
「マシューどう思う?」
隣のデスクで「んー」と頭を抱えていたマシューが顔を上げ答えた。
「やっぱり病理学者の言うように、ゆるやかな多臓器不全、老衰なんかな。おこげがまだ平均寿命の半分くらいしか生きていないこと以外は、全てのデータが合致するし」
その時、僕たちの背中側から前置きなく意見が飛んできた。
「ウィルスのせいじゃないんですか?」
忌憚のない意見。
僕たちの後ろ側にアリアのデスクが置かれている。
僕とマシューがチェアに座ったまま振り返り、三人だけの円陣となった。
「そうなんだよ、たぶん。そうであっては欲しくないと思っていたんだが、やはり僕たちはOKOGEウィルスが原因だと考えて、調べを進めていかなくてはならないようだ。OKOGEウィルスがおこげの体に何をしたのかを」
「そっか、それを考えていたのですね……。私の意見は浅はかでした。すみません」
「いいや、いいんだ。何でも思ったことを言ってみることで、何かが始まる。これからも遠慮なく何でも言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
この少ない会話だけで、僕はアリアのことをとても気に入った。
マシューもニコニコしているところを見ると、僕と同じ気持ちなのだろう。
やはり、どこか玲奈に似ている。
「じゃあマシューは、ウィルスがおこげの体内で変異などを起こしていないか、いくつかサンプルを取って調べてくれ」
「まかせときや、アニキ」
「アリアは病理学者に頼んで、各臓器の病理組織検査をしてもらって、結果を報告してくれ」
「わかりました。ところで私もアニキ? と呼んでもいいですか?」
「いや、アニキはちょっと……、アリアはハルヤと呼んでくれ。今日からアリアは部下や助手とかではなく、僕たちの仲間だ」
「仲間……。あ、ありがとうございます」
「僕はおこげの遺伝子を調べてみる。皆で力を合わせて原因を究明してゆこう」
「アニキ」
「ん?」
「新しいSquadの結成だな」
「うん。そうだな」
アリアはその目をくりくりさせながら、微笑む二人を交互に見ていた。
次の日から僕たちは、おこげの死亡原因を究明しようと懸命な努力を重ねていった。
マシューは死亡したおこげの血管内からウィルスを取り出して、遺伝子解析を行った。
結果、OKOGEウィルスは変異することもなく、発見時のRNAを保っていた。
念のため、肝臓内、脾臓内、骨髄内からもウィルスを取り出し、解析を行ったが結果は同じだった。
アリアは面倒くさがる病理学者を説き伏せて、自らも病理組織標本を作る手伝いをし、心臓、肝臓、腎臓、すい臓、脾臓、胃、小腸、大腸、肺とできるだけ多くの病理組織検査を行ってもらったのだが、新しい事実を発見することはできなかった。
僕は死んでしまったおこげの遺伝子解析を行った。
出会った頃のおこげの詳しいデータは田神製薬本社のメインサーバーに保存していたため、アクセスを突然拒否された僕の手元には残っていなかった。
仕方なく僕は、自前のパソコンにあるおこげのDNAデータと照らし合せることにした、いろんな臓器の細胞を何度も何度も。
だが僕は、何ら遺伝子上の変化を見つけ出すことはできなかった。
それでも僕たちは諦めず、手を替え品を替え残されたおこげの体を調べ続けた。
だが、調べても調べても何も出てこない。
そんな時、おこげの解剖を手伝ってくれた獣医師の一言は僕たちを妙に納得させるものだった。
「ストレス、じゃないですか?」
確かに、おこげはずっと研究材料として飼われてきて、定期的な検査や注射を繰り返し受けてきた。
感染の危険性があったため、手を触れて可愛がってやることもできなかった。
その上、癌を患い手術まで受けたのだ。
このストレスフルな毎日がおこげを疲弊させ死期を早めてしまった、それが原因であるのなら、いくら調べても何も出てこないはずだ。
ということは、僕たちが何かを見落としているわけではない、という結論に達する。
一定の結論に達したわけなのだが、僕の気分は晴れなかった。
それは、おかげの死亡にOKOGEウィルスが関与している、という僕の想定と一致しなかったせいなのかもしれない。
だが、そんなもやもやした僕の気分をアリアの言葉が一変させた。
「えっ? どうしてハルヤはそんな顔をしているんですか? このウィルスには病原性がなかったってことですよね? それを確認できた。これって喜ぶべきこと、ですよね?」
確かに、そうだ。
この結果は、OKOGE Type Squadの安全性が高まったということだ。
僕がOKOGE Type Squadの危険性に憂慮して、裁判を起こし、それによって日本中の人達から爪弾きにされたことが、全く必要のなかったということ、一切の無駄だったことということになる。
だがそれは、そうであった方がいいのだ。
僕たちが心血を注いで作った抗癌剤が、安全であった方がいいに決まっているのだ。
そうであってくれと願っていたはずだったのに、それを素直に喜べない僕がいた。
だがそんな僕を、率直なアリアの言葉が、元の僕に戻してくれたのだ。
「そうだな。本当にそうだ。アリアありがとう」
「えっ? どうして、ありがとう?」
真面目な顔をして頭の上に?マークがついているアリア。
そんなアリアを笑顔で見守っていたマシューが話し始めた。
「なぁアニキ」
「なんだい、マシュー」
「ここがターンニングポイントかもしれへん。一回研究の方向性を変えてみいひんか?」
確かにそうかもしれない。
発売以後OKOGE Type Squadに対して、僕は危惧ばかりを抱いてきた。
もちろんまだ安心などはできないが、一旦視点を変えてみるのもいいのかもしれない。
「さすがマシューさん!」
「ん? うん、ホント、マシューの言うとおりだ。よし、じゃあ今日から、OKOGEの新しい可能性について研究してみよう。それがまたOKOGEの長期経過を追う事にもなる」
予期していなかったアリアの言葉に、ちょっと面白い事になってきたぞ、と僕は笑顔を隠すことができなった。
・アトロフィー(機能が低下して萎縮すること)
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