第14話 PAA
できるだけマウスの正常細胞を傷付けないよう、PAAをごく少量0.1μl=0.0001mlずつ腫瘍内に注射していった。
注射後約二十四時間で腫瘍細胞は死滅し始め、三日後には、その細胞が硬化退縮した。
その時点で、再びPAAを注射。
するとまた、注入部周囲の腫瘍細胞が死滅、硬化退縮した。
これを腫瘍内部で、くまなく繰り返していくと、硬化退縮した腫瘍細胞は剥がれ落ち、周囲の正常細胞の表面に腫瘍細胞の層が残っているような状態になった。
日の丸弁当に入っている梅干しの種を取ったような感じだ。
更に注射を追加してゆくと、周囲の正常細胞の一部を巻き込みつつだが、腫瘍細胞の層、全てを剥脱させることが出来た。
周囲の正常細胞をできるだけ傷付けないよう細心の注意を払い、一歩一歩、ほんの少しずつPAAを注射し、約二か月をかけここまできた。
そしてついに、僕たちは癌細胞をやっつけることができたのだ。
前人未到の山頂に上り詰めたような達成感に包まれた。
特にこの繊細な作業を行ってきた伏見さんとマシューは、腫瘍がきれいに無くなりクレーターのように凹んだマウスの背中の写真を撮り終えた時、思わず二人で抱き合った。
一瞬我に帰った伏見さんは「なに抱きついてんのよ!」と怒った風にマシューを突き飛ばしたが、すぐに笑い出してしまい、あらためて抱擁し合った。
僕は朝比奈さんと固い握手を交わし、腕を何度も何度も振って笑い合った。
それは、成功例を重ねようと、次のマウスに同じ処置を施し始め一か月が経った頃だった。
あぁ、もしかして……。
「みんなちょっと集まってくれないか」
「えっ? 今からPAA十回目の投与をするとこなんだけど」
「いや、一旦中断して、一緒に見て欲しい」
伏見さんは、しぶしぶ椅子から立ち上がり、マシューは巻き簾に入っているマウスをゲージに戻してから、僕のところに集まってきた。
「これなんだけど」
ゲージの中には、背中にクレーターを持ったマウスかいる。
「癌の剥脱後、正常細胞による修復がなされてくるかどうかを観察していたんだけど、これどう思う」
クレーターの左半分が盛り上がっている。
表面は乾燥していて、正常の皮膚が再生されてきている様子はない。
マシューが実験用の手袋をした手でマウスを持ち上げ、その隆起している部分を触った。
「ナンカ、ゴリゴリシテルナァ」
「そうなんだよ。最初は小さな塊だったんだけど、だんだん大きくなってきて……」
「えっ? 癌の再発ってこと?」
「わからない。でも、その可能性は十分考えられるし、一度生検をして調べてみてくれないか」
「わかりました……」
いつも勝気な伏見さんが項垂れ、そう丁寧語で返事をした。
やはりダメだった。
組織検査の結果は扁平上皮癌だった。
念のため、クレーター内の隆起していない部分のうち数か所からも、生検してみたのだが、やはり癌細胞が所々に残っていた。
日の丸弁当の梅干は全て取り除けたのだが、ご飯にはその赤い汁が残っていたのだ。
「じゃあ、私のこの三か月間は全て無駄だったってこと?」
「It’s not that!」
「どこが違うのよ。全部無駄だったのよ」
声を出さずに涙を流す伏見さんの肩に手をあて「ソンナコトナイッテ!」とマシューは励ますのだが、伏見さんはその手を払いのけ、涙を見せないようそっぽを向いて肩を震わせている。
「コレヲ カテ二シタラエエネン」
「どうやって、糧にするのよ? ねぇ、リーダー教えてよ」
「癌が直接浸潤している可能性のある部分までPAAを打つしかないかな」
「可能性のある部分って、どうやって決めるのよ?」
「それは、外科的に切除する時のメルクマールに従って――、あっ……」
「あっ、ってなによ?」
「すまない、みんな……」
「すまない、ってどういうこと?」
「僕は研究の方向性を間違ってしまっていた……」
僕達が三か月間をかけて目指した前人未到の山頂は、誰もがヘリコプターに乗れば短時間で到達できる所だったのだ。
「僕たちは、正常細胞を傷付けないよう、少しずつ丁寧にPAAを注入することによって、癌細胞を取り除こうと試みてきた。でもそれは結果的に外科的切除と同じことだったんだ。癌細胞を取り除くのにPAAを使うかメスを使うかの違いだけ。どちらにせよある程度周りの正常細胞ごと取り除かないといけない。ならば、メスで切り取った方が短時間で確実に取り除ける。細心の注意を払いながら二か月もかける必要などどこにもないんだ」
「But. カラダノナカノCancerヲ キラントナオセルヤン」
「いや、それが抗癌剤のいいところなんだけど、PAAは直接腫瘍に打たないとダメだから、針や内視鏡を使わないといけないし、それなら内視鏡を使って切り取ってしまった方がやはり早くて確実だ」
皆が言葉を失った。
伏見さんの涙は、その量を増やし、肩を撫でるマシューの手を払うことももうなかった。
前向きな発言をしたいのだが、何も思い浮かばない。
このチームのリーダーとして、これからの指針を何としても示さなければいけないのだが、僕自身、途方に暮れてしまっている。
もう、この研究はあきらめるより他ないのかもしれないと。
「僕はどこで間違ったんだ? P-SEを試して、抗癌効果は強いけど、その表皮ブドウ球菌の力をコントロールできないことがわかった。だからPAAを培養生成して、その量を人為的にコントロールしようとした。どこも間違っていないよな。でも全然ダメだった、一歩も前に進むことができなかった……」
「御影さん! 今日は本当に一人きりでつぶやく独り言ですね」
「あっ、朝比奈さん」
「どうしたのですか? そんなに肩を落として」
「実験が頓挫してしまい……。僕のせいで、みんなに無意味な努力をさせてしまった。これ以上研究を続けてもいい結果は得られないかもしれないし。だからもうやめた方がいいのかもと思って……」
僕がそう言ってうつむいていると、右の肩に柔らかい重みを感じた。
そして、その重みがゆっくりと温かさに変っていった。
「無意味ってことではないと思いますよ」
僕は肩に置かれた手を外されたくなくて、そのまま振り向かずにたずねた。
「それは、どんなことにでも意味はあるってことですか? 努力は裏切らない、みたいな」
置かれた手から僕の肩へ、少しずつぬくもりが広がってゆく。
「そうなのかもしれません。でも私の考え方はちょっと違っていて。私はね、どんな行いにも意味なんてないと思っているのです」
「えっ、それってどういうことですか? 僕たちの研究にも元々意味なんてないってことですか?」
「はい、そういうことになりますね」
・生検(組織の一部を採取し顕微鏡で調べること)
・直接浸潤(癌細胞が周囲の組織に直接広がっていくこと)
・メルクマール(判断基準、この場合は腫瘍周囲の切除範囲の基準)
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