第15話 玲奈の父親
「どうして? 偉大な研究によって科学は進歩し、人々の生活は豊かになってきたじゃないですか? これは、大きな意味を持つ発見や発明によるものでしょ?」
「はい、その通りです。でもね御影さん、私思うのです。例えばライト兄弟が苦労をして有人飛行機を発明して、その後も数えられない程の人々の途方もない努力の積み重ねのおかげで、私たちは今、世界中のどこにでも短時間で行けるようになりました。でもね、その努力の結晶から大量の爆弾が落とされて、数えきれない人々の命が奪われてきた。そして、アインシュタインの特殊相対性理論をもとに開発された原子爆弾が飛行機から落とされた」
「えっ、それは……。ライト兄弟はそんなことのために飛行機を作ったわけではないし、アインシュタインも原爆を作るために物理学を研究したわけじゃない」
「ですよね。じゃあ、彼らは何故大変な苦労をしてまで研究したのでしょうね」
「それは……、ライト兄弟は空を飛びたかったから。アインシュタインは世界の仕組みを知りたかったから、その法則を知りたかったから、かな?」
「私もそう思います。したかったから、やりたかったから、だと。その後の結果は誰にもわからない、とても意味のある研究だと思われているものも、実はそうじゃないのかもしれない。だから、人は自分がしたいことをするしかない、と思うのです」
「確かに、そうかもしれませんね……」
「御影さんは、どうしてこの研究を始められたのですか?」
「それは……、最初はP-SEが癌に効くんじゃないかと思って、それを確かめてみたくて。そして、おこげを治せたらなと。その後は、もしかしたらこの薬で、多くの人を救えるんじゃないかと」
「P-SEは癌に効果があった。そして、おこげちゃんを救うことができた。しかし御影さんはそれで満足することはなく次を目指された。でもうまくいかない。だから、もう研究はしたくない、ですか?」
「いいえ、そんなことはないです。僕はこのPAAの可能性を確かめたい。もっともっといきつくところまで研究がしたいんです」
「だったら、やればいいんですよ。御影さんのやりたいように」
「でも、伏見さんやマシューにこれ以上負担をかけるわけには……」
「負担ですか……。伏見さんや、マシューはどう思っているのでしょうね。負担だと感じているのでしょうか。どちらにしても、彼らもやりたかったらやる、やめたかったらやめるで、いいのではないでしょうか。そこは御影さんが考えることではなく、彼ら自身が決めればいいのでは」
「だったら僕は続けたい。おこげは治ったんです。だからきっと……、あっ!」
「どうしたんですか?」
僕が急に振り向いたせいで、僕の肩から朝比奈さんの手が離れてしまった。
でも、今はもうそれどころではない。
「おこげだ! 調べるべきは、おこげなのかもしれません。 癌が治ったのは、P-SEの効力だけではなくて、おこげにも要因があったのかも。朝比奈さん、ありがとう! ちょっと今から二人のところに行ってきていいですか?」
「はい。私は今、御影さんを応援したい。だから応援しますね」
僕は笑顔だけでお礼を返し、足早に研究室をあとにした。
朝比奈さんの手はもうそこにはないのだが、気が付くと右上半身がポカポカと温まっている。
もしかすると、これが「手当て」というものなのかもしれないな、廊下を走りながらそう思った。
朝食のサラダをつまんでいると、ダイニングに父が入ってきた。
話しかけられると邪魔くさいので、テレビのニュースに見入っているよう装ってシチューを口に運んだ。
「おはよう玲奈、昨日も遅かったようだな」
やはり努力は無駄だった、父は空気を読むなどということはしない。
相手のペースなどは全く意に反さず、自分のペースに巻き込んでいく。
もう少し抵抗してみようかと、聞こえていないふりをした。
「玲奈おはよう、昨日はどうして遅くなったんだ?」
やはりこの抵抗も無駄だった。
「ちょっと調べたいことがあったから」
「C班の研究に関することか?」
「うん、そう」
「なぁ玲奈、今度、新たに立ち上げるD班に移動してみないか?」
「えっ? どうしてよ」
「報告書を見ると、C班の研究はもう行き詰っている。リーダーも研究の方向性を間違っているようだし。何事も見切りというものが大切なんだ」
「そんなことない、リーダーは、御影さんは全然あきらめたりなんかしていない。昨日も急にやってきて、モルモットの組織を調べてくれって」
「でもな玲奈、南米の植物から取り出した免疫活性酵素が強い働きを示したんだ、それを見つけた奴もなかなかの有望株だし。おまえには、そいつの方が似合っているんじゃないかな。背も高くてかっこいいぞ」
「パパは有望な部下を手に入れたいだけなんでしょ。私を使ってでも」
普通の親なら、こんな反抗的な言葉を娘からぶつけられば逆上しそうなものなのだが、父は余裕を持ってそれを受け止め、冷静に対応してくる。
大人と子供、私の言葉など相手にもされていない。
「そんなわけないだろう、パパはおまえに幸せになってほしいだけだ。そのためにはいい相手と結婚しないと。だから――」
ダメだ、このままでは丸め込まれてしまいそうだ。
「大丈夫。私はちゃんと自分で幸せになるから。もう行くね。とにかく今は、D班に移動なんてしないからね」そう言い捨てて、玄関に向かった。
母は黙って、二人の会話を聞いていた。
父の考えをどう思っているのだろう。
せっかく母が作ってくれたシチューなのに、今朝は全く味がしなかった。
毎朝迎えの車が来る父は「同じ会社に行くのだから、乗っていけばいいのに」と何度も私に声をかける。
そんなことができるわけがない。
ただでさえ、コネ入社だと後ろ指をさされ、何をしても、いくら頑張っても「さすがは常務の娘さん」と言われるだけだ。
確かにこの一流メーカーに就職できたのは父のおかげなのかもしれない。
でも、入社後の努力は父には全く関係ないはずなのに……。
こんなことは誰にも相談できない。
したところで、共感してもらうことなどできないだろう。
きっと「それは贅沢な悩みよ」と慰められるのが落ちだ。
唇を噛みしめながら電車に乗った。
通勤ラッシュにはまだ早いはずだが、車内はそこそこ乗客で埋まっていた。
できれば座りたかったのだが仕方がない。
あきらめて、閉じたドアに体をあずけ一息ついた時に、少し離れたところに席が空いているのを見つけた。
立っている人の間をぬって、あの席まで行くのもどうだろうと思案しながら見ていると、あることに気付いた。
空席になっているのは、シートの端から二番目と三番目の席で、一番端には男性が座っている。
そして、その男性を中心にして半径約二メートルの空間がぽっかりと空いている。
「あっ……」
よく見ると、その男性はリーダーだった。
声をかけようと近付いてみると、皆が遠巻きに彼を眺めていることがわかった。
「あぁ……」
また、ぶつぶつと独り言を言っている。
確かにこれは近寄りたくない。
時折、電車で見かける少しおかしな人そのものだ。
ちょっと面白くなってきた私は、そのまま観察することにした。
・伏見常務(ふしみ常務、54歳、伏見玲奈の父親)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます