第63話 手のひら

 僕と玲奈が腕を組み楽しそうに歩いている写真、

 両手を繋いで見つめ合う二人の写真が掲載されたのだ。


 キャッチーな見出しを伴って。



【リケジョはやっぱり天才がお好き?】

【リケジョもやっぱりお金がお好き?】

【巨額の賠償金を得る? 二人】



 油断をしていた、というよりも自分たちのことを理解できていなかった。


 僕もさることながら、玲奈はリケジョのアイドルで、道行く人の中に玲奈の顔を知っている人が何割かの確率で存在しているのだ。


 そしてその中には、そっと写真を撮る人もいるだろう。


 それを出版社が買い取って、絶妙の、僕たちにとっては最悪のタイミングで週刊誌に掲載をしたのだ。


 二人は共に独身で、休日の夕方に街で一緒にいただけで、何ら倫理に反することはしていない。


 だが、僕たちに対する世間の感情が称賛から羨望そして妬みへと変化しつつある時にこの記事を見ると、憎悪の対象にすらなってしまう。


 巨額の賠償金を得るために、世の中の人にとって必要で大切な新薬の販売中止もいとわず、画期的な発明を自分たちの利益のためだけに独り占めしようとする若い二人が、楽しそうに街中でイチャイチャしている二枚の写真、なのだ。



 週刊誌の発売当日、会社の前に沢山の取材陣が詰めかけてきて、その理由はお前だと社内で記事を見せられた。


 まさか、自分たちがこんな形で週刊誌に載るなんて……。


 玲奈と二人、頭を抱え落ち込んだ。


「ごめんなさい。私が腕なんかを組んだせいで、こんなことに……」


「玲奈のせいなんかじゃないよ。僕たちは何も悪いことをいていたわけじゃないんだし」


 あまりにも突然の全く予期していなかった出来事のせいで、何の解決策も見いだせないまま一日が過ぎていった。


 夜が更けるのを待って、裏口から報道陣を避け帰路に就いた。


 もちろん玲奈とは別々に。



 その帰り道、僕は出来るだけ人に顔を見られないよう真下を向いて歩いた。


 誰もが自分の顔を知っていて、「あの強欲な研究者か」と後ろ指を指されるような気がしたからだ。


 だが、気がかりはそれだけではない。


 家で待っているみつきさんが今どう思っているのか。


 きっと怒っているよな……。


 それは、玲奈と腕を組んで歩いていたのだから仕方がない。


 だが、みつきさんがとても悲しんでいたら、涙を流していたら。


 そう思うと、居ても立っても居られなかった。




 玄関のドアを開けると、みつきさんが立っていた。


 今にも泣き出しそうな、とても悲しい顔をして。


 みつきさんに、こんな思いをさせてしまった。


 倫理に反するかどうかなどということは問題ではなくて、みつきさんにこんな顔をさせてしまったのだ。


「ごめん……」


 謝ることで、みつきさんの気持ちがやわらぐとは全く思っていなかった。

 だが、勝手に言葉が出てしまった。


 みつきさんは何も言わず目を閉じて、そしてゆっくりと首を横に振った。


 それって、どういう意味?


 その答えを知る由もなく、「おかえりなさい。大変だったでしょ。さぁ、寒いし早く中に入って下さい」そう言って、みつきさんは僕の背中に回り、僕を部屋の中へと押し込んだ。


 その時のみつきさんの表情を、見ることはできなかった。


 みつきさんは両手でしっかりと僕の腰を掴んだまま、僕をリビングまで押していくと、くるっと踵を返し台所の方に行ってしまった。


「ねぇ、みつきさん。あの写真のことなんだけど」

 台所に向かって、そう声をかけたのだが、「疲れたでしょ。すぐにできるから、座って待っていてくださいね」と言われてしまった。


「あまりお腹も空いていないし、ちょっと話が……」もう一度そう言っても、「いいから、いいから」と取り合ってくれない。


 仕方なくコートと上着をハンガーに掛けてから、ソファーに座り込んだ。


 みつきさんの声は無理に明るさを装っている……。


 きっと怒っているんだろうな……。


 そりゃ腹も立つよな、同棲相手が、こともあろうか同僚と腕を組んで楽しそうに歩いている写真を見せられれば、しかも自分との約束をキャンセルして出て行った日の写真。


 なんと言われるのだろうとビクビクしながら座っていると、目の前に卓上コンロと底が深めの取り皿が置かれ、その後に土鍋がやってきた。


「きっと今日は食欲もないだろうと思って。湯豆腐にしました。これなら少しくらい食べられるでしょ?」


「う、うん。ありがとう……」


 怒っていないの?


 どうして……。


 みつきさんは再び、台所に戻り、薬味とおちょこと、そして燗をしたとっくりを持ってきた。


「さぁ、少し飲んで、今日はもう寝ちゃって下さいね。嫌な日のことは忘れちゃいましょう」


 そう言って、おちょこに温かいお酒を注いでくれた。


「みつきさん、あの写真は、玲奈が――」


 みつきさんは、僕が言いかけたのを遮るように首を横に振った。


「私は御影さんを肉体的に満足させてあげることができないから」


「いや、玲奈とそんなことは何も」


 今度は縦に小さくうなずいて、「わかっています。玲奈ちゃんとはまだ何もない、って思っています。でもこれからは……」と。


「いや、玲奈とはこれからも……」そう言いかけると、みつきさんがまた首を横に振った。


「私だけじゃダメだから、私はできないから……。だから御影さんが外でどんなことをしていてもかまわないのです。でもできれば……」


「できれば、何?」


「最後はここに帰ってきて欲しい。私のそばにいて欲しいんです」


 思わずみつきさんを両手で抱きしめた。


「大丈夫だから。僕はずっとみつきさんと一緒にいるから」


 でも、みつきさんはギュッと両肩に力を入れていて、抱き寄せることも、振り向かせることもできなかった。


「さぁ、もうできたみたいだから食べましょう! もみじおろしと柚子みそがありますから、お好みでどうぞ」そう言って、豆腐と三つ葉を器によそってくれた。


 湯豆腐は、こんな日でも喉を通ってくれて、もみじおろしも柚子みそも、そして熱燗も、冷えた体を温めてくれた。


 でも、その日は最後まで、みつきさんの顔を正面から見ることはできなかった、見せてはくれなかった。




 翌日から、みつきさんはいつものみつきさんに戻ってくれた。


「行ってきます。今日はゆっくり身体を休めて下さいね」


 笑顔でそう言い残し、仕事に出て行った。


 以前勤めたことのある病院に看護師として再就職したのだ。



 僕は、今回の騒動が収まるまで出社を控えることにした。


 テレビをつけると、田神製薬の建物が目に入る。


 時には、僕たち二人を撮影した大学生が、興奮した様子でその時の状況を話している。


 会社を報道陣が取り囲むようなことは二、三日で収まったが、僕は日を追うごとに出社する気力を失っていった。


 癌をやっつけたくて、母を助けたくて、癌で苦しむ沢山の人たちを助けたくて、精一杯全力で頑張ってきた。


 そして、とても幸運なことに、すごい仲間と出会うことができて、すごい抗癌剤を作ることができた。


 でもそれには、いまだ把握できていない危険性が潜んでいるかもしれない。


 だから、その危険性が多くの人たちに及ばないよう、使用を制限した。


 その制限が上手く機能せず、仕方なくクビを覚悟で裁判まで起こした。


 世の中の人のために、自分のためなんかじゃなくて、みんなのために。


 でも何故かそのみんなが、突然手のひらを返してしまった。


 みつきさんと、玲奈と、マシューと、おそらく姉の家族と、それ以外の人たち全員が僕を蔑んでいる気がして、いつも誰かがそんな目で自分のことを見ているような気がして、外出をすることさえ嫌になってきた。



 みつきさんを毎日送り出し、「そんなことしないで下さいね」と言われているのだが、掃除機をかけて、洗濯機を回して、そしてみつきさんが買ってきてくれた材料でご飯を作る。


 主夫もなかなか楽しいかも、そんなことを思い始めた頃、裁判の判決が下された。



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