第20話 佐々木課長

「なぁ、おこげ。僕にできるかな。正直なところ全然自信ないんだよ、あの佐々木課長だし。でもさ、僕が言いだして、そしてみんながそれに応え死ぬほど頑張ってくれたんだ。だから必ず認めてもらわなくちゃいけない、おまえのウィルスとPAAの可能性を、そして僕たちチームの可能性を。でもさ、それには見当もつかない程の予算が必要なんだろうし、僕たちなんかの思い付きで会社が動いてくれるとは到底思えない……」


「大丈夫ですよ」

 と、応えくれたのは、おこげではなかった。


 肩肘を張っていたのだろうか、温かい手で両肩を揉みほぐされ、優しい声と優しい香りに包まれた。


「あっ、みつきさん」


「大丈夫です。自信をもって下さい。その自信を相手にぶつければきっとわかってもらえます」


 どうしてなのだろう、みつきさんに大丈夫だと言われると、本当に大丈夫なような気になってくる。

 みつきさんが凄いのか、僕が単純なのかはわからないが、たぶんきっと大丈夫だ。


 僕が「ありがとう」と答えると、両肩を優しくパーンを叩かれた。


「じゃあ、頑張って行ってきてください。佐々木課長にアポをお願いしたら、今から来て下さいって」


「えっ? 今から?」


 驚いて振り向くと、みつきさんが「はい。今から」と笑顔でうなずいた。


 その笑顔に後押しされた僕は、レポートを携え佐々木課長の部屋に向かった。




「話ってなんだいったい」


 椅子に座り背もたれに深く体をあずけ新聞を広げている佐々木課長は、僕に目を向けることもなく、そう言った。


「今日はお願いしたいことがあって参りました」


「だからいったいなんだ。仕事が詰まっているんだ、早く言ってくれ。有給なら皆と相談して取っていいぞ。残業させてくれってのはダメだ。ブラック企業だとかグレー企業だとか、世の中にはそんなレッテルを張りたがるやつがいっぱいいるからな。この田神製薬はそんな企業じゃない。この前の残業はおまえの個人的な趣味みたいなものだったし、あれに残業代を出さなかったのは正当な判断だからな」


 佐々木課長はそう言うと、新聞を広げたまま、様子をうかがうよう目だけを僕に向けてきた。


「お願いはそういうことではありません。前にお話しした研究の続きを――」


「なんだ、まだそんなことを言っているのか。あんなもの夏休みの宿題にもなりゃしない。時間の無駄だ。もう帰れ」


 相変わらず、最高に腹が立つ。

 どうやったらこんなに人の気持ちを逆なでするような言葉が次々と出てくるのか。


 しかし、みんなの熱意と努力を無駄にするわけにはいかない、そのことを思い出すと腹立たしさが一瞬で治まった。


「宿題ではないのですが、このレポートを読んで頂けますか」


 後で読んでおくと言われてしまうと、説得もできないし、きっと課長は読みもしないだろう。

 僕は「一ページ目だけでもおねがいします」と付け加え、レポートを差し出した。


 あからさまに邪魔臭そうな表情で受け取った佐々木課長は、大きなため息をひとつつき、レポートを読み始めた。


「なんだ、懲りずにまだやっているのか」


「はい、すみません」


「おいおい、このマウスはどうやって手に入れたんだ? 俺は聞いていないぞ。会社のものを勝手に使ったのか」


「すみません。それは、伏見さんから分けてもらったもので」


「伏見? 抗癌剤研究室の伏見玲奈か?」


「はい」


 急に佐々木課長の顔色が変わった。

 何かに恐れているような顔つきに。

 どうしたんだ……。


 一ページだけを読んで、すぐに投げ捨てるかと思いきや、佐々木課長は次々とページをめくっていった。

 時折、前の方のページに戻っては読み直し、再びページを進めていく。

 それとともに表情が真剣みを増してゆき、最後は唖然とした表情になり顔を上げた。


「おまえ……」


 罵倒は覚悟している。


「おまえ、すごいじゃないか。これはすごい……」


 予想だにしなかった言葉に、僕は反応することが出来なかった。


 ただ、頭の中に、マシューと玲奈と、そしてみつきさんが大喜びをして飛び跳ねている映像が浮かび上がり、その後、自身の感情が胸の中いっぱいに広がっていった。


「じゃあ、この研究をさせて頂けるんですね?」


「いや、それはまた、話は別だ。予算、設備、人員確保、他の研究との兼ね合いや優先順位、その他いろんな要素を考えなくてはならないからな。もちろん私の独断で決められることではない。プロジェクトを立ち上げるということは、そう簡単な事ではないんだ」


「そうなんですか……。そうですよね……。でも、このアミノ酸とウィルスには、計り知れない可能性があると思うんです。あっ、このアミノ酸ですが、レポートに書いてあるよう、表皮の保護がない状態では、細胞にアポトーシスを起こさせる作用が強すぎるので、化粧水としては危険性が高すぎます。正常の皮膚であれば問題ないのですが、少しでも傷があると、そこから潰瘍を作ってしまうので」


「そうだな、そちらの方は中止の方向で検討しよう」


「はい。是非そうして頂いて、その分の人員と設備を今回の研究にまわしてもらえればと」


「うむ。でも、そんな単純なものではないんだよ。まあ、とにかく一度、常務には相談をしてみる。ところで、どうして君は常務のお嬢さんと知り合いなんだ?」


「えっ? 常務のお嬢さん?」


「そうだ、伏見常務のお嬢さんだろ、伏見玲奈は」


「えっ? そうなんですか? 知らなかった……」


「知らなかったって、おまえ……。そんなことみんなが知っていることだぞ。ぼんやりしているにも程がある。それでどうして、彼女がこの研究に参加しているんだ? こんな業務外の研究に」


「それは……」


 ここで、みつきさんの名前を出していいのだろうか……。

 このことを、みつきさんの直属の上司である佐々木課長が知らないということは、彼女が一存でやっているということで。

 だったら、このままみつきさんのことは黙っておいた方がいいよな。

 何か適当な言い訳を考えないと……。


「えっと、マシューとたまたま居酒屋で出会って、一緒にやろう、って話をしていたら、じゃあ抗癌剤の知識のある人を連れてくるよ、と言ってくれて、それが伏見さんだったんです」


「マシューって、あの変な日本語を話すマシューか?」


「はい、ウィルスの専門家でとても頼りになります」


「なかなか濃い三人組だな。まあいい、とにかく少し待っていろ」


「はい、よろしくお願いします」


 やるべきことはやった。

 言うべきことも言った。


 後は結果を待つしかない。






「朝比奈君、C班の研究はどうなんだ? ものになりそうなのかね?」


「それは、科学的知識のない私にはちょっとわかりかねます。ただ……」


「ただ、なんだ?」


「モチベーションの高さは他班と比べ群を抜いているかと」


「そうか。私に頼ることをあんなに嫌っていた玲奈が、お願いしますと言ってきたものでな。佐々木君も珍しく熱くなっていたし。ただ、このプロジェクトには相当なコストがかかりそうだ。もし成果を上げられなければ私の汚点になってしまう。いくら娘に頼まれたところで、それだけは避けねばならない」


「全てがビジネスですか」


「そうだ。さすがよくわかっているな。ところで、もしもC班が成果を上げた場合だが、御影君のコントロールはうまくやれそうか?」


「はい、その点については大丈夫かと」


「よし、では引き続き監視を続けてくれ」

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