第6話 伏見玲奈

 僕はおこげをゲージに戻し、P-SEの入ったボトルを手に取った。


「このP-SEは、角質細胞のアポトーシスを促して、表皮を新鮮な細胞に活性化する作用があるんです。それはこのP-SEに入っている表皮ブドウ球菌が作るアミノ酸の作用なんですが、アポトーシスを促進させるなら癌に効くんじゃないかと思って」


 真剣なまなざしで僕のことを見つめながら聞いている朝比奈さん。


「それで、注射をしてみたってことですか?」


 僕は小さくうなずいてから、話を続けた。


「このままでは死んでしまうし、ダメもとで。そうしたら、結果、このとおりなんです」


「すごいじゃないですか! えっ? じゃあどうして、さっき一人で……、怒っていましたよね?」


「はい、僕も我ながらすごい! と思っちゃって、佐々木課長にこの事をこれから研究させて欲しいと言いに行ったんです」


「あぁ、それをダメだと言われたのですか……」


「はい、バカ言ってるんじゃない! さっさと自分の仕事に戻れ! と一蹴されてしまって」


「そうだったのですね。でも御影さんは、この研究をしたいと」


「はい。でもそれには少なくとも同じ腫瘍細胞を植え付けたモルモットが何匹も必要だし、組織を見ることができる癌に詳しい人にも協力してもらわなければいけないし。だからにっちもさちも行かなくて強烈にイライラして、独り言を言ってしまってた、みたいですね……」


 話を聞いていた朝比奈さんは、なぜかおこげと見つめあったまま僕に言った。


「もしかしたら、ほんの少しお力になれるかもしれません。二、三日待っていてもらえますか?」と。






 おこげは牧草を口にくわえ、もぐもぐを続けている。

 時にウォーターノズルから水を飲み、またもぐもぐもぐもぐ。


「おまえはホントおいしそうに食べるよなぁ。体調もよさそうだし。悩み事もなさそうだ。あぁ、悩みなんてあるわけないか。いいよなぁ、おこげは。今の自分に不満を持つことも、未来を不安に思うこともない。食べて飲んでおしっこして、ゆっくり眠れば、それで幸せ。まぁでも、本来生物はみんなそうなんだよな。人間だけが、それに満足せず、ないものねだりで、いつも何かを求めている。その欲求が僕達研究者の原動力で、それで科学を発達させてきたわけだけど。でもそれは、いつまでどこまで続くんだ? このままで――――」


「ホントに独り言を言ってるんだ」


 振り向くと、彼女はなぜか怒った顔をして「はい」と手のひらを上にして右手を突き出した。


「えっ?」


「早くしてよ。忙しいんだから」


「えっと……、何を?」


「えーっ? あなたが朝比奈さんに頼んだんでしょ?」


 どういうことだ、話が全然見えない。

 ほとんど毎日、朝比奈さんと会ってはいるが、事務的な話しかしていないし、何かを頼んだ覚えもない。


 僕が頭を捻っていると、その女性は「もーっ」っと更にイライラ感を増し、

「御影治也さんですよね? 私は抗癌剤研究室の伏見玲奈です。腫瘍細胞の組織検査をしてほしいと朝比奈さんに頼まれたから、ここに来たんです。だ・か・ら、モルモットから取れたという腫瘍を早く渡して、く・だ・さ・い」


 おそらく年下だと思われるこの伏見さんの高圧的な態度におされるがまま「あっはい。すみません」と、冷蔵室からおこげの腫瘍が入った検体容器を取り出し、伏見さんに手渡した。


 検体容器を受け取ると、

「ホント、うわさ通りの人ね」

 そう言い捨てて、伏見さんは研究室を出て行った。






 母、御影恵子が入院した。


 母はC型肝炎ウィルスのせいで肝臓の細胞が傷付けられ、肝硬変になりつつある。

 肝硬変になってしまうと、肝臓のあらゆる機能が障害され、多様な症状が現れてくる。


 ノックをしたが、何も返事がなかったので、「治也だけど、入るよ」と言って母の病室に入った。


 少しギャッジアップされたベッドの上で、母は目を閉じ眠っていた。


 ベッドサイドのイスに座っていた姉が静かに立ち上がり、さみしそうな笑顔を作って出迎えてくれた。


 ノックに答えなかったのは、母を起こしたくなかったからなのだろう。


「お母さん、どう」


「うん、ようやく落ち着いて眠ってくれたところ」


「そっか、パニックを起こしたんだって?」


「ごめんね、わたしのせいで」


「えー、姉さんのせいじゃないだろう、全然」


「いや、私がお母さんを一人にしたから。同窓会になんて行かなければよかったのに……」


 電話で聞いた話では、姉は今日お昼に同窓会があるため、朝から母のお昼ごはんをテーブルに用意して外出、そして同窓会が終わって夕方四時に帰宅したらしい。


 母はいつもと変わらぬ様子で「同窓会は楽しかった?」と姉に話しかけ、その後の会話も弾んだ。


 ただ冷蔵庫の中の食材がいくつか見当たらないため、姉は自分が買い忘れたのだと思い、もう一度買い物に出かけた。


 そして帰ってくると、母がリビングでパニックを起こし泣いていたのだと。


 姉が「どうしたの?」とたずねると。


「服がうまく着られないの。どうしてなの……。どうして……」

 そう嘆きながら、必死でボタンを留めようとする母。


「どうして……。どうして私、こんな簡単なことができないの……」


 掛け違えたボタンを外したり留めたり、前合わせを裏返してみたり上下してみたり。


 必死にやろうとすればするほど、手の動きは制御を失ってボタンを留めることさえできなくなってしまい。


「私、おかしくなってしまったの? もうダメ……。もう……」と、泣き崩れてしまったらしい。


 先生の説明では、肝臓の機能が低下したせいで、血液中のアンモニアが増えてしまい認知症のような症状が現れたらしい。

 これは、食べ過ぎや便秘によって起こりやすいとのことだった。


 でも、昨日まで元気だった母が急にそんなことになるとは、誰も思いもしなかったわけで、もちろん姉が予想することなんて到底不可能だ。


「姉さんは悪くないって。今日、同窓会に行ってなくても、こうなったかもしれないよ? お母さんがおいしいもの食べたいって言ったら、なかなかダメって言えないし。ずっと見張っておくわけにもいかないしさ。ケガとかもしなかったんだから、今日わかって入院できてよかったんだよ」


 そう言っても「そうかなぁ」と元気を取り戻せない姉は悲しい顔のまま、眠る母を見つめている。


 きっと、泣き崩れる母を見て、姉もショックだったに違いない。


 このまま病状が進んでいく一方なのかと思うと、次にかける言葉を見つけることができなかった。


 ふと、顔を上げた姉が、こちらの方に振り返り言った。


「そうそう、さっきお母さんが眠る前に言っていたよ」


「なんて?」


「治也に、これを食べさせてあげなくっちゃ。治也来るかなって」


「これって?」


「これよ」と姉が冷蔵庫から取り出してきたのは、真っ赤なサクランボだった。


「あぁ、確かに小学校の時は大好きで、缶詰を一缶全部食べて怒られたこともあったけど、僕ももう二十七だからなぁ」


「治也は年が離れた末っ子だから、可愛くて仕方ないのよ」


「うん。普段会話してても僕のこと中学生くらいだと思ってる? って感じる時もあるからなぁ」


「そうだね。でも、甘やかされてあげなさい。親にとっては子供はいつまでも子供で可愛いものなんだから」


「うん」


 入院しなくてはいけない状態の母。


 とてもつらいはずなのに、そんな時にでも、僕のことを考えていてくれたのだと思うと、甘いサクランボが途中で少ししょっぱくなった。






・伏見玲奈(ふしみれな、25歳)

・検体容器(滅菌され密閉できる小さな容器)

・御影恵子(みかげけいこ、64歳、御影治也の母)

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