第5話 効果

 問題は注射翌日の化膿と体調の悪化だ。


 今回は、順調に回復してくれたが、次回もそうなるとは限らない。


「なぁ、おこげ、もう一回試してみてもいいか?」


 おこげは体調が良くなったせいなのかご機嫌で「クック、クック」と声を出し歩き回っている。


「なんだ、今日は返事をしてくれないんだな」


 こんなに元気になったおこげに、もう一度辛い思いをさせるのもなぁ。

 でも癌患者さんが化学療法を受ける時も、何かしら起きる副作用に耐えながら頑張っているんだし。


「おこげも、頑張ってくれるよな?」


 そう問いかけると、今度は「ホヨホヨ」と僕に声を返した。


 その声の意味は全く分からないのだが「いいよ」と言っている、そう思い込むことにした。


 前回、おこげの体調が悪くなったのは、やはり化膿が原因だと思われる。


 そして、切って膿を出した翌日から回復していったことを考えると、最初から膿が溜まらないようにしたらいいのではないだろうか。


 僕はP-SEを腫瘍本体に注射した後、その針先で皮膚の一部を切開することにした。


「ごめんなおこげ。我慢してくれよ」


 左手で、おこげが動かないよう押さえ込み、右手で持った注射器を腫瘍中央部めがけ突き刺した。


 おこげは体をよじりながら「キーキー」と声を出し怒っている。


「ごめん、ごめんよおこげ」


 僕はそうおこげに謝りながら、P-SEを0.1ml注入した後、注射針を抜く際に針先をスライドさせて皮膚を5mm程切り開こうとした、が、その瞬間おこげが痛みのせいか動いてしまい、1cmも切れてしまった。


 切れたところからは出血か続いている。


「大丈夫か? おこげ、ちょっとじっとしていてくれよ……」


 あわてて消毒の時に使ったガーゼで出血部を必死に押さえた。


 時々、出血の具合を確認しては圧迫を繰り返していると、三分間程で、なんとか出血はおさまった。


「あぁ、よかった。ごめんよおこげ、やっぱり痛かったんだよな。そりゃ麻酔もなしに切られたら痛いよな」


 ゲージに戻されたおこげは、やはりまた背中を見ようと体を左右に捻じっている「グルグル」と声を出しながら。


 ご機嫌は悪そうだが、出血もおさまっているし、どうやら今回も急性反応は起こらずにすみそうだ。


 問題は注射翌日の化膿だ。




 しかし幸いなことに、前もって皮膚切開をしていたのが功を制したのか、翌日も腫瘍の周囲が少し発赤しただけで、腫れもほとんど出なかった。


 そして、2.6×3.0cm大だった腫瘍は翌日から小さくなり始め、注射一週間後には、2.0×2.4cm大となり、二週間後には1.7×2.1cm大にまで縮小した。


 前回はここから一週間様子を見たのだが、今回はこの時点で、再びP-SEを0.1ml注射した。


 腫瘍の表面は周辺から新しい皮膚ができかけていたが、中央部は薄い膜が張られているだけだった。


 念のため、この薄い膜を5mm程切り開いた。


 この膜には神経がまだ通っていないのか、おこげが暴れることもなく、スムーズに処置することができた。


 今回も特に目立った副作用は出ず、おこげは元気な状態のままで、腫瘍だけが小さくなっていった。


 一週間後には1.1×1.4cm大になった。


 そしてそれは三回目の注射から十日後に起こった。




 その日も、腫瘍の大きさを計測しようとおこげをゲージの外に抱き上げた。


 小さく干からびたようになってきた黒い腫瘍が、何故か昨日より少し盛り上げってきている。


「ん? もしかしてまた大きくなってきたのか? このP-SEに耐性ができたとか?」


 僕が、腫瘍の状態を詳しく見ようとピンセットでつまんだその時、腫瘍はまるで大きなへそのごまが取れるように、周囲の組織からポロっとはがれ、おこげの背中には乳白色の小さなくぼみだけが残った。


「おおっ、取れた! 腫瘍が取れたぞ、おこげ! 治った! 治ったぞ!」



 僕はもう嬉しくて嬉しくて、おこげを抱きしめキスをしたい気分だったのだが、噛まれると嫌なので、それはやめておくことにした。




 世紀の大発見かもしれない。


 僕は、喜び勇んで佐々木課長のところに行き、事の顛末を説明。

 研究チームを立ち上げさせて欲しいと嘆願した。


 僕の話を最後まで黙って聞いていた佐々木課長が口を開いた。


「それでか。どうりで君の残業が増えていたわけだ」


「あっ、はい。でもおかげで、このP-SEが癌に著効することを発見することができました」


「ばかやろう!」


「えっ?」


「たった一症例で何を言っているんだ。だいたいその腫瘍が癌だったのかどうかもわからないじゃないか。写真も詳細なデータもなく、ただ単に、注射をしてみたらできものが小さくなりました、ってだけの話だろう? 何を大発見したみたいな顔をしているんだ! 任された研究のスケジュールに遅れを出しているくせに、研究チームだと? バカを言ってるんじゃない! そんなことよりも、すぐに遅れを取り戻せ」


 佐々木課長の言葉があまりにも予想外だったため、僕は反論する言葉をすぐには見つけることができなかった。


 僕がうつむき考えていると、

「いいから、さっさと仕事にもどれ。それと今月の残業はプライベートなものとして、カットしておくからな」そう追い打ちをかけられた。


 佐々木課長は右手で払うような仕草をした後、もう話すことはないと言わんばかりにパソコンのキーボードを打ち出した。




「なんでなんだよバカやろう。そりゃあ確かにおっしゃる通りですよ。与えられた仕事は遅れていますし、大発見だって言っても、確かなデータはひとつもありませんよ。いやだから、だからそのデータを集めるためにチームを組んで研究しようって言っているんじゃないか。だって間違いなく癌細胞をやっつけたんだぞ。しかも見ろ、こんなにきれいに跡形もなくなく腫瘍がなくなったんだ。外科的切除も放射線療法も併用せずに、注射を三回打っただけで。しかも副作用は表面の化膿だけ。これを研究せずに何を研究しろって言うんだ。課長も元々は一人の研究者だろうが――――」


「御影さん」


「御影さん」


「御影さん!」


 とんとんと肩をたたかれ、ようやく自分の名前を呼ばれていることに気が付いた。


「あっ、朝比奈さん」


「今のは、明らかに独り言ですよね?」


 そう言って笑う朝比奈さん。


「あっ、はい……」


 なんでなんだ。

 さっきまで、この会社に入ってから一番といっていいほど頭にきて、イライラの極限にまで達していたのに、朝比奈さんの笑顔につられて、微笑んでしまった。


「どうかしたのですか? 独り言は減ったっておっしゃっていたのに。 おこげちゃんも元気みたいだし、何かあったのですか?」


 おこげはこちらの方を向いたまま「クイックイッ」と鳴いている。


 そうだな、朝比奈さんになら愚痴っても大丈夫かも。

 おこげのこともずっと誰にも言わず黙っていてくれていたし。


「ちょっと見てもらえますか?」


「はい?」


 ゲージを開けて、おこげ抱き上げた。


「以前、朝比奈さんに見てもらったところ、ほらここ、きれいに治っているでしょ?」


「ホントですね。 なんか黒くてぼこぼこしていたのに、傷痕みたいなのが残っているだけで、すっかり治っていますね」


 そう言いながら、朝比奈さんはおこげの背中を撫でている。

 ちょっとおこげが羨ましい。


「あの時、膿が溜まっているって話をしたと思うんですけど、実はあれ、ここにあった悪性だと思われる腫瘍に、僕が扱っている試薬P-SEを注射してみた翌日だったんです」


「えっ? それってどういうことですか?」






・耐性(薬に対する抵抗力)

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