第4話 変化
翌朝も研究室に入るなり、おこげのゲージをのぞき込んだ。
「おはようおこげ、大丈夫か?」
そう声をかけると一瞬だけ目が合ったのだが、おこげはすぐに「グルグルグルグル」と鳴きながら、口を開けて、体を右に左に捻じりだした。
「切ったところを舐めようとしているのか?」
でも、幸か不幸か腫瘍はおこげの口が届かない位置にある。
猫や犬は、傷口を舐めて治すと聞いたこともあるが、手術後舐めないようにエリザベスカラーをつけられたり、術後服を着せられたりもしているし、本当はどちらの方がいいのだろう。
おこげを抱き上げ背中を見てみると、腫瘍の周りの腫れや赤みはほとんどひいているのだが、表面はうっすらと乳白色の液体に覆われている。
「おこげ、痛いのか? これ、膿だよな? だったら舐めるかわりに僕が拭き取ってやろうか? でも傷口はあまり触らない方がいいのか? あー、僕に獣医の友達がいたらなぁ」
そう、おこげにつぶやいていると、突然後ろから声をかけられた。
「御影さん、誰とお話されているのですか?」
振り返ると、昨日階段の踊り場で見た微笑が、そこにあった。
「あっ、朝比奈さん。あっいや、ちょっと、このモルモットの調子が悪くなっちゃって……」
まずい……、実験動物の調子悪いとか言っちゃ、どうして処分しないのですか? って話になってしまう。
この職場についたのなら、実験動物の処遇については知っているはずだし。
どうしよう……。
と焦っていると朝比奈さんが、
「そうだったのですか、私、また御影さんが独り言を言っているのかと思っちゃいました。その子、早くよくなったらいいですね」と、柔らかな笑顔をつけて言ってくれた。
あぁ、よかった……。
ん? いや、ちょっと待て、どうしてだ?
「あのー、朝比奈さんはどうして、僕の名前を? それに、また独り言って……」
「えっと、一応、私が担当する方のお名前は覚えさせて頂きました。そして、みなさんとお話していると、いろんな情報が入ってきて。御影さんの独り言については、何度か耳に」
そんなことをさらっと言う朝比奈さん。
まだ二日目なのに、みんなの名前をもう覚えたんだ。
いやそれより、僕は独り言が多い、とみんなから聞いてしまったのか。
きっと変な奴だと思われているんだろうな。
「そ、そうなんですか……。いや、でも、こいつのおかげで独り言が少し減ったんですよ。あぁっ、動物に話しかける研究者っていうのも気持ち悪い、ですよね……」
「いいえ、そんなことないですよ。御影さんって、優しい人なのだなって思いました」
えっ? 僕が、優しい人って? なんか嬉しいな。
あっ、いやいや、そんなことより、
「あのー、朝比奈さん、お願いがあるんですけど」
「はい、どのうような?」と朝比奈さんはもれなく笑顔をくっつけて応えてくれる。
全く同じ口調で同じ言葉を言ったとしても、その人の表情が笑顔かどうかどうかで、受ける印象は全然違ってくる。そしてこの笑顔は最大級の効果を発揮している。
いや、だからそんなことより、
「おこげのこと、みんなに内緒にしておいてほしいんです」
「おこげ?」
「あっ、このスキニーギニアピッグのことなんですけど、おこげって名前をつけちゃったんで」
「御影さん、おこげちゃんのこと可愛がっておられるのですね。わかりました、絶対内緒にしておきますので、ご安心下さい。ところで、おこげちゃんはどこが悪いのですか?」
どう言うべきか。
病気に罹ったモルモットを処分しないで飼っているだけでもまずいのに、勝手にP-SEを試しているなんてこと言えるわけがないし。
でも少しは本当のことを打ち明けて、共感してもらった方が、皆に黙っていてくれるかもしれない。
「実は、背中に膿が溜まっちゃって、昨日、少し切って出したのですが、今日も薄っすら膿のようなものが付いていて、これを拭き取るべきかどうか迷っていたんです」
「あっ、そうなのですか。じゃあ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
えっ? 見せてもらうって、朝比奈さんがおこげを? どうして?
朝比奈さんは、僕の返事を待たずに、ゲージをのぞき込み始めた。
「あー微妙ですねぇ。これ、膿かもしれないですけど、もしかしたら細菌をやっつけたり、傷んだ組織を修復したりするための浸出液かもしれません。膿だとしても、それほど悪い色をしていないので、もう少しこのまま様子を見られてはいかがでしょうか?」
どうして、そんなに詳しいんだ?
僕が驚きのあまり、ぽかんと口を空いていたためか、朝比奈さんが「私、以前看護師をしていたので。でも、お医者さんではないので、保証は出来かねます」と自ら答えてくれた。
「そうなんですか。じゃあそうしてみます……」
うちの事務系スタッフの多くは契約社員だし、給料もそれほど高くはないはずだ。
看護師はやりがいもある上に給料も高い。
看護師から他の職種に転職したという話は聞いたことがない。
どうしてなのだろう……。
などとぼんやり考えていると、
「あのー、ところで今日は郵便物とか、私のお仕事はないですか?」
と、朝比奈さんに問われた。
今日は必要な物品も郵便物もない、出張なども当分ない。
「はい今のところありません。また何かあったらお願いします」と、答えると、朝比奈さんは「承知致しました。ではまた便利屋朝比奈をいつでもご用命下さい!」 そう言いながら可愛い敬礼をした後、柔らかい笑顔を研究室に残したまま「失礼します」と頭を下げて出て行った。
背筋をぴんと伸ばした後姿がとても清々しい。
なんなのだろう、この絶妙な礼儀正しさとくだけた感じの融合は。
その日、おこげは一日中、背中の方を気にしてはいたのだが、体調は良くなってきているようで、徐々に動きも多くなり餌も食べるようになった。
よかった。とりあえず一安心だ。
「いっぱい食べて早く元気になってくれよ、おこげ」
その日からおこげは、少しずつ元気を取り戻していった。
時折、背中の方を気にすることはあるが、それ以外は元のおこげに戻っていった。
ただ一つのことを除いては。
膿が溜まったところを切開した日以外、僕は腫瘍の大きさを毎日測定した。
1×1cm大の腫瘍が四週間で3×4cm大になった。
そしてP-SEを注射して、翌日に切開。
そこからだ。
それを期待して注射してみたわけだが、本当にそうなるとは思ってもみなかった。
腫瘍が小さくなるとは。
腫瘍は注射後一週間で2.5×3.0cm大まで小さくなった。
その後、徐々に縮小するスピードは鈍化し、二週間後には2.3×2.7cm大で停止。
三週間後からは、再び大きくなり始め四週間後には2.6×3.0cm大となった。
それと並行するように、腫瘍の表面は二週間後から閉じはじめ、三週間後には新しい皮膚に覆われた。
この結果は何を物語っているのか。
まず、P-SEには腫瘍を小さくさせる効果があり、その効果が二週間で切れてしまったということ。
同時にその間は皮膚の再生も阻害していたということだ。
このことから推察されるのは。
おそらく、アポトーシスを促進するアミノ酸P-SEは抗癌作用を持っている。
脱脂綿に付着したあの黒い組織は、おそらく死滅した腫瘍細胞だったのだ。
そして、それをつくる表皮ブドウ球菌は二週間で死んでしまったと考えられる。
ということは、このP-SEの注射を二週間ごとに繰り返せば、おこげの腫瘍を治すことができる! かもしれない。
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