第7話 チーム
眠る母を起こす気になれず、一時間ほどで消灯時間となったため、母を姉に任せ病室をあとにした。
あまり空腹は感じていなかったのだが、帰宅してからもう一度食べに出るのも面倒で、病院を出てすぐのところにあった居酒屋に入ることにした。
表の面積に比べ奥に長いお店は結構な広さがあって、会社帰りのサラリーマンや学生たちで盛り上がっていた。
入り口に背を向けL字になったカウンターに座り、壁に貼ってあるメニューを眺めた。
手元にもメニューはあったのだが、壁に貼ってあるものがこのお店の定番のようだ。
ホッケや唐揚げ、刺身の盛り合わせ、居酒屋の単品メニューがあるかと思うと、豚の生姜焼き定食やら親子丼など、定食屋さんのようなメニューも豊富にあった。
右端から順に目を通し、半ば辺りでアジフライ定食にしようかと思案している時に、その人の姿が僕の視界に入った。
人とは明らかに違う輝きを放っている朝比奈さん。
それは、いつも着ている、どんな汚れも許さない真っ白なブラウスのせいだけではないだろう。
そんなことを僕が考えているとはつゆ知らず、彼女は壁に貼ってあるメニューを真剣なまなざしで見つめ、慎重に吟味している。
視線が右に行ったり左に行ったりまた戻ったり、結構悩んでいるようだ。
僕もその間、悩みに悩んでいた。
朝比奈さんに声をかけるか、かけないか。
できれば、仲良くなってみたい。
でももし、「今はプライベートなので」とか言われたら、想像しただけで恐ろしくなる。
なかなかオーダーしない僕に、店員が「何にしましょうか?」とカウンター越しに声をかけたその時、突然、朝比奈さんがこちらの方に振り向き手を挙げた。
「あっ」と反射的に右手を挙げて、それに応えたのだが、朝比奈さんの視線は微妙にズレてゆき、僕の横を背の高い一人の男性が通り過ぎて行った。
「お客さん大丈夫ですか?」
きっと悲壮な顔をして固まっていたのだろう。
店員がそう声をかけてくれた。
おそらく彼はことの成り行きを見ていたのだろう、とても優しい「大丈夫ですか?」だった。
「はい、大丈夫です……。アジフライ定食をお願いします」
小さな声でそう答えるのが精一杯で、僕はがっくりとうなだれた。
しかし、気にはなる。
とても気になる。
うつむいたまま目だけを上げて、カウンターに並ぶ客の間から二人の様子をうかがった。
朝比奈さんは立ち上がって、その男性を右奥の席に座らせた。
小さなテーブルを挟んで対面する形に座ったため、僕からは二人の横顔が見える。
朝比奈さんに指さされ、はにかみながらキャップを取った彼は、なんと金髪でブルーアイの白人。
二十代半ばではないかと思われるその男性は笑顔がとてもキュートで。
朝比奈さんが連れて歩いたら最高の絵になりそうな年下の彼氏。
勝てる要素はどこにも一切見当たらない。
出てきたアジフライはとてもパリッと揚がっていて、その場から早く離れたい一心で食べた口の中は、傷だらけになってしまった。
帰り間際に見た朝比奈さんは、最高の笑顔で両手を合わせ、いただきますをしていた。
人のやる気というものは、こんなにも簡単になくなってしまうものなのだろうか。
おこげの研究は、朝比奈さんに認めてもらいたくてやっていたわけではない。
しかも、朝比奈さんのことを「いいな」とは思っていたが「頑張ったら付き合えるんじゃないか」なんて大それたことは、夢にも思ったことはない。
だから、朝比奈さんにどんな彼氏がいようが、自分には関係のないことで、ましてや研究に対するやる気とは全くもって無縁のはずだ。
いくら彼氏が背の高いブルーアイの若くてキュートな白人であったとしても。
だが、あの居酒屋の二人を見て以来、全く何もやる気がでない。
ただ毎日、与えられた仕事を黙々とこなしているだけだ、なんの感情も感動もなく事務的に。
朝比奈さんは、ほとんど毎日研究室にやってきて話もするのだが、こちらの方もただただ事務的にだ。
「なぁ、おこげ。おまえは一人でさみしくないのか? 彼女を欲しいとは思わないのか? ん? そういえばモルモットの発情期っていつなんだ? 猫や犬は春と秋だよな? それに比べて人間は年がら年中発情している。まったく節操のない生き物だよなぁ」
おこげは「プイプイ」と鳴きながら、ゲージの中を歩き回っている。
僕は、疑問に思ったことはすぐに調べないと気が済まないたちなので、モルモットの発情期を調べるためにパソコンを開いた。
【モルモット 発情期】と打ち込み検索した。
「おーっ、なんとお前たち十六日周期で発情するのか? なになにメスは十五日から十七日周期で発情し、オスは一年中いつでも発情できますだってぇ? なんだおまえ人間以上に節操ないじゃないか! おこげも俺と一緒なのか? 発情したいけど相手がいないだけ――――」
背後から「はっ」と鼻で笑われ、振り向いた。
後ろに立っていた伏見さんが上から僕の目を見て、半笑いで言った。
「発情したいんだ?」
誤解だ誤解、今発情したいってわけじゃなく、おこげも発情していて、いや、いつでも発情できるのに、相手がいないってところは自分と一緒だなと思っていただけで、と心の中では言い訳をしているのだが、いじめられっ子のいじるネタを見つけた時のような左右の口角の上がり方が非対称な伏見さんの半笑いの表情が恐ろしく「いやいやいやいやいや」と右手を細かく横に振るのが精一杯だった。
「御影さん、あまり節操なく発情しないでくださいね」
今日の伏見さんはずっとニヤニヤしている。
「まぁ、それはとりあえず置いといて。頼まれた組織は偏平上皮癌が壊死を起こしたものでしたよ」
「あっ、やっぱり癌だったんだ。壊死? じゃあ……」
「言いたいことは、わかってます。なので、明日の夜九時に、ここに来て下さい」
と、一枚の紙を手渡された。
この研究塔のすぐ近くの建物に赤い丸印が打たれている。
わかっていますって、どういうことだ? 全然わからないぞ?
そんな僕の頭の中を知ってか知らでか、伏見さんは「ふんっ」と再び鼻で笑い出て行った。
会うたびにバカにされているようなのだが、いつも大きな白衣を着ている彼女を何故か僕は憎めない。
「コンニチワ―」
妙な抑揚のついた関西なまりのこんにちは。
夜の九時、指定された建物に向かった。
そこは、今は使われていない旧研究塔だった。
明かりのついたドアを開けると、この「コンニチワ―」に迎えられた。
ん? この前のブルーアイ!
「こんばんはって言うんだよ、って言ったのに!」と、怒りながら笑う伏見さん。
「Oh マチゴウテシモタァ。コンバンワー」
やはりキュートにはにかむ彼と、話す言葉がとてもアンバランスで、つい笑ってしまった。
伏見さんも彼の抑揚を真似て「コンバンワー」と言い、僕が笑いをこらえながら「こんばんは」と返すと、朝比奈さんが「御影さん、こんばんは」とにっこり微笑んだ。
なんだかよくわからないが、楽しくなってきた。
と思っていると、朝比奈さんが背筋を伸ばして話し出した。
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