第26話 イクラ

 炊き立ての熱いご飯が磯の香りを一瞬で口の中いっぱいに広げ、噛むごとにイクラの旨味と、ほのかなしょっぱさと甘さ、醤油の香りが弾けてゆく。


 噛んでも噛んでも、新たな味と香りが弾けていって、更に噛み砕かれたご飯の甘みが加わって、それはもう、なんとも言えないおいしさが続き、飲み込むのがもったいないとさえ思えてしまう。


 ふと我に返ると、目の前でみつきさんが、してやったりの表情で、「おっしゃるとおり、この食べ方が最高です」と僕が言うのを聞き、満足そうにうなずいて、自分もイクラご飯をかきこんだ。



 調子に乗って食べてしまい、お茶碗のご飯全てをたいらげた。


「もうお腹いっぱいです」


「私もです。じゃあ――」

 とみつきさんが手を合わせたので、僕もそれに合わせて「ご馳走様」をした。


「よかったら、ソファーで休んでいて下さい。食器を軽くだけ洗っちゃうので」


「いやいや、僕も手伝いますよ」


「いやいや、今日はいろいろ手伝ってもらったし、もうゆっくりして下さい」


「わかりました。じゃあお言葉に甘えて」


 そう言って、持てるだけの食器を流しに持って行ってから、ソファーに腰を下ろした。


 あぁ、やっぱり思っていたとおりだ。

 包み込まれる……。


 その感触にしばし浸っていると、目の前にカクテルグラスに入れられたイクラとワイングラス、そして冷えた白ワインが置かれた。


「この組み合わせも最高なんです。飲みながら待っていて下さいね」


 えっ? 待っていて下さいって、それはみつきさんをってこと?


 みつきさんを待って、みつきさんがやってきたら、その後は?


 もしかして……、なんてそんなことあるわけないか。


 とりあえず、みつきさんが戻って来るまで待つことにしよう。


 イクラはカクテルグラスで屈折した光を浴びて、神秘的にと言っていい程光り輝いている。


「このイクラは一つ一つが鮭の卵子なんだよな。人間に捕まりさえしなければ、川底に産み落とされ、そこに精液をふりかけられて、それぞれの卵子に一つ一つ精子が入って行って、そしてまたイクラを生むための鮭になっていく。あっ、よく考えたら、ウィルスも意外と精子みたいなものなのかもな。精子も自分一人の力だけでは後世に遺伝子を残せない、だから必死で卵子の中にもぐり込み、相手の遺伝子と混ざり合いながら自分の遺伝子を複製してゆく。ただ、それを相手が望んでいるかいなかの違いがあるだけで。でも、それすら本当のところはわからないよな。もしかすると、細胞レベルでは全ての生き物はウィルスの来襲を待ち望んでいるのかもしれない。自らが進化するために」


 急に、ソファーの沈み込む感覚がして、「御影さんって、どんな時でも研究のことを考えているんですね」と、すぐ横にいるみつきさんの口元から聞こえてきた。


「あっ、また独り言、言っちゃってましたか……」


「はい、今日は比較的豪快に。でもね、いつも研究のことを考えている御影さんを私、尊敬しているんです」


 尊敬……、僕なんかのことを……。

 ダメだ、強烈にドキドキしてきた。

 みつきさんがこんなにも近くにいる。


「あっ、ごめんなさい。飲むのを待っていて下さったんですね」


 そう言いながらグラスにワインを注いでくれているみつきさんは、手を伸ばさなくても触れられるところにいて、みつきさんの匂いと体温までもを感じてしまう。


 グラスを差し出され、手に取ったところで目が合った。


 反射的にグラスを合わせたのだが、ドキドキ感のせいでそれを一気に飲み干してしまった。


 気付くと、みつきさんのグラスも空いていたので、今度は僕がワインを注いだ。


 何か話さないと……。

 何か……、あっ。


「今日はホントにすみませんでした。急に母が無理なお願いをしてしまって。もうこんな歳なのに、親離れ子離れができていないもので」


「いえいえ、御影さん親子は親離れ子離れできていないわけじゃなく、お互いを大切に思われているだけで、とっても素敵だなって思いました」


「えっ? そんなこと言ってもらったの初めてです。 うちの話をするとマザコンだシスコンだとバカにされて」


「お母様もお姉様もお義兄様もとてもお優しい方ばかりで、御影さんがこうなられた理由がよくわかりました」


「こうなられた?」


「はい。とても純粋でやさしくて、言い方は悪いかもしれませんが、すれたところが全くなくて。愛情を存分に受けて育てられた方なんだなって思いました」


 どうしよう、ひどく嬉しい。


 ひけ目に思っていたことを素敵だと言ってくれる女性が現れた。

 その女性は、それこそ史上最強に素敵な女性で。

 そして今、その女性がすぐ目の前で、伏し目がちにワインを口に運んでいる。


 いつもなら正面から見つめニッコリと微笑んでくれるのだが、今は少し緊張しているようにさえ見える。


 これって……。


 どうしたらいいんだ。


 僕は、どうすべきなんだ?


 もちろん、自分の気持ちに従うのなら、抱きしめたい、キスをしたい。


 でも、「私、そんなつもりじゃありません」と拒否をされ身体を固くされてしまったら、それこそ、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまう。


 でも、「一人住まいの女性の部屋に誘われたら、それはOKのサインだ。何もしないことの方が失礼だ」という話もよく耳にする。


 いや……、でも本当にそうなのだろうか……。


 みつきさんの今の気持ちをたずねたい。


 でも、どう聞いたらいいのかわからない。


 みつきさんも、黙ってしまっている。


 お願いだ! 誰か教えてくれ……。


 あっ、みつきさんが座り直したせいで、肩と肩が……。


 あぁ、なんで女性の体はこんなに柔らかいんだ……。


 みつきさんと触れているところに全身の神経が集中してきているように感じる。


 薄いブラウスはつるつる感を増すだけで、肌の柔らかさと温かさが直接伝わってきて。

 彼女を抱きしめた時の柔らかさと温かさを想像してしまう。


 このまま、触れたままでいたい。


 触れているところが離れてしまわないように、でも変に押し付けてしまわないように。

 全身に力が入り、頭の先まで緊張感に覆われてきた。


 体の角度が変わったせいか、気付くとみつきさんのサラサラの髪が顔のすぐ横にきている。


 少し揺れるだけで、ずっと匂っていたい香りが漂って……。


 あぁ、もう……。


 ごめんなさい、もう我慢の限界です。

 心の中に、その言葉が浮かんできて、居ても立っても居られなくなり、みつきさんの方に振り向いた。


 その動きを察知したのか、みつきさんはビクッして身を固め、僕のことをを見つめている。

 おびえる小動物のようなみつきさん。


 あぁ、ダメだ……。

 驚かせてしまって、ごめんなさい。

 大丈夫です、僕はちゃんとあきらめます。


 そう思った瞬間、みつきさんがゆっくりと目を閉じた。


 ええっ? いいの? ホントに?

 えっ、でも、怖がっているような……。

 いや、でも、いいのなら早くしないと、みつきさんが目を開けてしまう。


 えーいっ! と、心の中では勢いを付けつつ、

 みつきさんが壊れないよう、そっと両肩をつかんで、みつきさんを引き寄せた。

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