第35話 みつきさんと

 タクシーを降りてからも、少しふらついているみつきさん。


 男性に恐怖心を持つみつきさんをどう介抱していいのかわからない。


 背負ったり肩を貸したりするのは接触面積が広すぎる。

 でも、手をつなぐだけでは、みつきさんが転倒しそうになった時に体を支えることができない。


 僕は悩んだ末、よちよち歩くみつきさんの前に回り、両手を持って誘導することにした。


 鍵を借りて、オートロックの玄関を開け、エレベーターに乗って、部屋の前へ。


 借りた鍵でドアを開け、二人の体を入れ替えた。


 ドアに寄り掛かりながら「今日は色々とすみませんでした」と、みつきさんが頭を下げる。


「えっ? 謝まられるようなことは全然なかったと思いますよ」


「いえ……、母があんなことをしてしまったし、私もこんなに酔ってしまって。最後まで迷惑をかけてしまいました」


「いえいえ、みつきさんのことを……、子供の頃のみつきさんを、今のみつきさんを、少しでも知ることができて、凄くいい一日でした」


「御影さん……」

 そう言って、顔を上げたみつきさんと目が合った。

「今日は……、本当にありがとうございました。じゃあ……」


「じゃあ」の後は「おやすみなさい」か、「気を付けて」か、はたまた「さようなら」か。


 どれにせよ、今はどの言葉も聞きたくない。


「あの……、今日お店で言っていた恐怖心を克服するって話ですが……、今から少しだけ……」


 ダメだ、次の言葉出てこない。

「僕に手伝わせて下さい」も変だし「僕と頑張ってみませんか?」あぁ最悪だ、なんでこんなにいやらしい感じになってしまうんだ……。

 いやしかし、どうしても……、どうしてももう少しみつきさんと一緒にいたい……。


 結局、僕は続く言葉を見つけることはできなかった。


 でも、みつきさんは、小さな、とても小さな声で「はい」とうなずいてくれた。




 みつきさんが開けてくれたドアをくぐり、靴を脱いだ。


 みつきさんも鍵をかけてから、パンプスを脱いだ。


 僕が廊下に上がったところで、どうしたものかと突っ立っていると、みつきさんが右手を差し伸べる。


 その手を取ると、みつきさんが右側の壁にあるドアを開いた。


 そこには、ベッドが置かれた寝室が……。


 セミダブルに近いような、ゆったりとした大きさのベッドがあって、そこに二人並んで腰を下ろした。


 つないだ手から緊張感が伝わってくる。


 それは僕にも伝染し、ここからどうしたらいいのか、どうすべきなのか全くわからない。


 寝室はみつきさんのいい匂いで満たされていて、飲んだワインと相まって、顔が火照ってきてしまう。


 みつきさんの右手も汗ばんできて、息苦しさまで感じるようになってきた。


「えっと、ちょっと暑くないですか? 少し窓を開けましょうか?」

 そう問いかけると、みつきさんがまた小さな声で「はい」とだけ答えた。


 窓を半分程開け、元の位置に戻ったのだが、離してしまった手をどうすべきか、これまた悩んでしまった。


 もう一度、手をつなぐべきか。


 でもまた動けなくなってしまうかも……。


 寝室に案内されたのだから、ベッドに入ってもいいのでは?


 いや、男の人が怖いと言っているのに、いきなりベッドはハードルが高いよな。


 肩に手を回す?


 ダメだ、その姿勢を続けるのは、酔った二人にはきつ過ぎる。


 困った……。


 でも、できれば、みつきさんとひっつきたい……。


 僕は悩みに悩んだあげく、もう一度立ち上がった。


 勢いがありすぎたのか、みつきさんが少し、ぴくっとしてしまった。


 ごめんねみつきさん。


 でも、そのみつきさんはそのままに、掛布団の左半分をめくり上げてから、彼女の前にまわりこんだ。


「みつきさん」とだけ言い、両手を出すと、みつきさんがおそるおそる手を取ってくれた。


 その手を軽く引っ張って立ち上がらせると、みつきさんは僕の手に導かれ、ゆっくりとベッドに横たわってくれた。


 両手を胸の前で組み天井を見つめているみつきさん。


 神々しささえ感じてしまう。


 ダメだ。このままじゃ触れられない。


 僕は、みつきさんに掛布団を首までかけて、ベッドの右側にまわり、布団の間に体を滑り込ませた。


 よし! と思ったのは束の間で、またここからどうしたらいいものか。


 せっかく窓を開けたのだが、布団の中はもうみつきさんの匂いそのもので、どこも触れていないのに、みつきさんの体温が伝わってきて、みつきさんがすぐ横で深呼吸を繰り返す音がする。


 もうこれは……。


 気付いた時には、みつきさんを抱きしめて、しまっていた。


 左手でみつきさんの背中を抱きかかえ、右腕はみつきさんの首の下を通って腕枕のようになっている。


 みつきさんが、みつきさんの顔が、僕の顎のすぐ下にあって。


 背を丸め、小さくなったみつきさんを僕がすっぽりと包み込んでいる。


 柔らかくて温かくていい匂いのみつきさんが、腕の中にいる。


 もうこれで十分だ。

 これ以上、何も望まない。



 と、そんなわけにはいかないんだよ、男は……。


「少しだけ」と言った手前、今日一気に最後までとは、これっぽっちも思っていなかった。


 でも男は、気になる人ができると、その人と話をしてみたくなって。

 話をして、その人のことが好きになると、触れたくなって。

 その人に触れると、キスをしたくなる。

 そしてキスをしてしまったら、それはもう……。


 だが、僕が躊躇しまくっている間に、みつきさんは背を丸めたまま眠ってしまった。


 いつの間にか、寝息に変わったその音があどけなくて、身動きするわけにはいかない。


 この体勢は、承諾なしのほっぺにチューすらできはしないし、頭を撫でるのが許される精一杯のことだった。


 眠ってしまったみつきさんは、更に柔らかさと温かさを増していて。

 触れているところ全てから僕に刺激を与え続け、残る自制心を崩壊させようとする。


 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、あらゆる感覚器官からみつきさんが常に入ってきて、眠ることなどできはしない。


 これこそが生き地獄。

 夢にまで見た最高の状況で、最高に辛い時間。


 この永遠とも思える悶々とした時間は窓の外が明るくなるまで続き、気付くとお味噌汁のいい匂いが漂っていた。


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