第9話 とんかつ

 与えられたルーティーンワークと三匹のヌードマウスを使った実験を並行してやっていく毎日は、いくら時間があっても足りないくらいで、今日も昼ごはんを食べ忘れてしまうところだった。


 社員食堂は三時までだ、急がないと。


 お昼時には受け渡し口に長蛇の列ができ、テーブルでは仕事中の緊張感から解放された社員が、思い思いに談笑をしているのだが、三時前の食堂は食洗器の音だけが聞こえてくるだけの閑散とした空間になっていた。


 その中で、ポツンと一人の女性が座っている。


 窓際に座るその女性の白いブラウスが、外から入ってくる光で透き通り、彼女の肌までが輝いているように見える。


 そして、ブラウスから透けて見えるブラジャーの肩ひもとバックラインのシルエット。

 なぜこれが、男心をこんなにもくすぐるのだろうか。


 中学生の頃から始まったこのドキドキは、二十七歳になった今の御影でもほとんど変わることはない。


 下着自体には何の興味も持っていないのに、白いブラウスを通して見えるそれは清潔感を何倍にも増幅させ、神秘の領域にまで達する。


 などと考えている場合ではない。


 この後姿は、間違いなく朝比奈さんだ。


 マシューと二人でいるのを見てしまって以来、仕事中の事務的な会話か、雑談をするにしてもチームのみんながいる時だけで、二人っきりで話すのには腰が引けてしまう。


 本当は自分の気持ちに踏ん切りをつけるため、マシューとの仲をちゃんと確認した方がいいのだが、まだ残っている、ほんの少しの可能性がなくなってしまうことが嫌で仕方がない。


 今日のところは、現状維持でいきたいところだ。


 しかし、まさに今、奥に引っ込んでしまっている食堂のおばちゃんに大きな声でオーダーすれば、朝比奈さんは必ず僕に気が付くだろう。


 そして、その上で、わざわざ離れたところに座るのは明らかにおかしい。


 となると仕事外の時間に二人っきり……。


 だが、もうすぐ三時になってしまう。

 躊躇している時間はもうない。


「すみませーん、とんかつ定食をひとつお願いしますー」


「はーい」という声が返ってきたところで、振り向くと、やはり朝比奈さんと目があった。


 そして、いつものごとく、彼女のにっこりが胸に突き刺さる。

 これにやられると食欲が低下してしまうので、とんかつ定食は食べられないかもしれない。


「揚げたてを持って行ってあげるから、席で待ってて」とおばちゃんに言われ、心の準備ができないままに彼女の前に行き「ここ空いてますか?」と声をかけた。


 フッと吹き出しながら「はい、空いています」と笑う朝比奈さん。

 思えば、どうみてもこの席は空いている。


 出だしからつまずいてしまい、頭が全く機能しない。


 朝比奈さんは御影のとんかつ定食が来るのを待ってくれているのか箸を止め、微笑ながら御影を見つめている。


 早く何か言わないと。


「いいお天気ですね」


 おいおい、天気の話なんかしている場合じゃないだろう。


 でもそんな間の抜けた話にも「ホントそうですねぇ。いい季節ですねぇ」と目を細めて窓の外を眺めてくれる朝比奈さん。


 その美しい横顔を見て、僕は思わず言ってしまった。


「じゃあ、今度の日曜日、もし晴れたら外に行きませんか?」


 あっ、違う違う。

 一緒に出掛けませんか? だ。

「外に行きませんか」じゃ意味がわからない。


 しかも、そこに行ってみたいと思わせるような具体的な行先を提示した方がOKをもらえる可能性が高いと本を読んで知っていたのに、なんて間抜けな誘い方なんだ。


 だいたい、まずマシューとのことを先に聞かないといけないだろう。


「太陽の下ですか……」


 そうだよなぁ。

 朝比奈さん色が白いし、きっと日焼けとかに気を付けているよな。

 というか、マシューが居るのなら二人で出掛けること自体がダメなわけで。

 だいたいこんな冴えない研究者と一緒に外に行ったって……。


 そんなことを考えていると、朝比奈さんがスマホを取り出し操作し出した。


 二人でいる時にスマホをいじりだしたら、これはもう「あなたといるのは退屈です」って意味だよな?

 もしくは、目の前の人のことを置いておいても連絡を取らないといけない大切な人がいるということだ。


 ダメだ、もう今言ったことは取り消そう。


「やっぱり――」

「あっ、日曜日は降水確率10%ですよ! どこに行きます?」


 えっ、それってOKってことだよな? マジで? めっちゃ嬉しいぞ。

 えっと、どこに行こう。

 自分から誘っておいて、行先決められないってのはダサすぎる。

 えっと、えっと……。


「朝比奈さんは、動物苦手とかはないですか?」


「はい、動物は大好きです。犬も猫も、ゾウもキリンも。カメレオンとかも」


 やっぱり、朝比奈さんはいい!

 人が何かを質問する時には、ある程度答えの予測をしていることが多いわけだけど、その予測以上の答えが返ってきた時、その人に対して更に興味を持つようになるのかもしれないな。


「じゃあ、ちょっと子供っぽいけど、動物園に行きませんか?」


「あっ、いいですねぇ。動物園なんていつ以来だろう」


 と会話が弾み出しそうな時に「はい、おまちどうさま」とおばちゃんがとんかつ定食を持ってきてくれた。

 よく食堂を利用するので、このおばちゃんとは顔見知りだ。


「残っていたからサービスしといたよ」

 そう言いながら、おばちゃんは、僕にウィンクをして去っていった。


「がんばりなよ」と言われた気がした。


 皿を見ると、とんかつが二枚も入っている。


「あっ、御影さん、食堂の方にすごくひいきされていますねぇ。御影さん愛されキャラですもんね」


「えっ? 僕が?」


「はい。末っ子感がハンパなく醸し出されています。御影さんご兄弟は?」


「十五離れた姉が一人」


「やっぱり。きっとみんなから愛情をめいっぱい受けて育てられたのでしょうねぇ」


 ダメだ、完全に見透かされている。なんだか小恥ずかしいし、話題を変えよう。


 朝比奈さんの前には、小さなお弁当が一つと、お味噌汁が置かれているだけだ。

 お弁当を作ってきて、食堂の温かいお味噌汁だけを注文したようだ。


 いつも清潔感が尋常じゃない服装だから、お金に苦労していないのかと思っていたけど、意外と倹約家なのかもしれない。


「あのー、よかったら少しとんかつを食べてもらえませんか? さすがに二枚は多すぎるので」


 ダイエットとかしているかも、余計なことを言ってしまったか、と一瞬懸念したのだが、僕の予想に反し、朝比奈さんの顔がぱっと輝いた。


「いいんですかぁ? じゃあ遠慮なく」


 そう言って、朝比奈さんは箸でとんかつを二切れつまみ上げ、お弁当箱のご飯の上にのせた。

 そして右手で箸を持ったまま、目を大きく開けて、じっと僕を見つめている。


 これってもしかして「もう少しもらってもいいですか?」ってことなのか?


 僕が思わずうなずくと、朝比奈さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを作って、とんかつをもう三切れ、自分のお弁当箱に移した。


 そしてその笑顔のまま、とんかつに向かって両手をきっちりと合わせ「いただきます」と頭を下げた。


 なんて可愛い人なのだろう。


 胸がいっぱいになったまま、僕もいただきますをした。

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