第32話 措置

「朝比奈君、大丈夫なのかね」


「と、いいますと」


「御影君から申請のあった報奨金の件、君に相談はなかったのだな?」


「はい。お金のお話なので、相談しにくかったのかと」


「それならいいのだが、しっかり手綱を握っておいてくれよ。うまくいけばこの薬は田神製薬始まって以来の巨額な利益を生む商品になるかもしれない」


「はい、それは十分に理解しております。でも、そうであれば……」


「報奨金を出してやれば、よかったのではと?」


「はい」


「そういうわけにはいかない。このプロジェクトのことはまだ他の課には伏せてある。『すごい薬が研究されている』などという噂は、どこにでもあるものだからいいのだが、そこに前例のない報奨金が支払われた、ということが伝われば確証となってしまう。そうなると専務や他の常務達にな」


「プロジェクトの成果を独り占めできなくなる、というわけですね」


「言葉は悪いがそういうことだ。上に行くためにはいろんな努力が必要だからな」


「わかりました。では引き続き……」


「しっかり頼むぞ朝比奈君。御影君はもう、そこら辺りにいる研究員の一人とは訳が違う。私の今後を左右する可能性まである重要な人物だ、他社に引き抜かれたりした日には目も当てられない。それはひいては君の今後も左右するのだからな」






「どうして言ってくれなかったのよぉ! 相談してくれてたらパパ……いや常務に直談判したのに!」


「いや、だから言わなかったんだよ。OKOGEの研究をさせて欲しいって課長に言いに行った時も、玲奈が常務に頼んでくれたんだろ? お父さんには頼りたくないと思っているのに」


「ん……、でもさ、リーダーのお母さんのためなら、そんなこと、どうだっていいよ」


「ありがとう。ところで、どうしてこの話を知っているんだ?」


「佐々木課長が『御影君の様子はどうだ?』って聞いてきたから、なんでそんなこと聞くのか、問い詰めてやったんだ」


「そっか」


「アニキ、ミズクサイナァ。Squad、ナカマナンダカラ、ソウダンシテヤー」


「んー、でもこれは個人的なことだから」


「No! アニキノMomハ、ナカマのMom。タイセツナヒトヤデ」


「そうそう! でも結局は何の力にもなれなかったかもしれないけど……。しかし会社ってホント冷たいよね。前例がない前例がないって、最初誰かがやったから、前例があるんだっつーの!」


「ホンマヤナー。Harshヤ」


「ハァーシュ?」


「ンー、Cold‐blooded. チモナミダモナイ」


「あー、なんか腹が立ってきた。自分の父親がその中に入っていると思うと余計に腹が立つ。あっ、そうだ!」


「なんだ? 玲奈」


「リーダー、特許を取ろうよ」


「特許? どうして?」


「これから会社となんかあった時に、リーダーが特許を持っていれば、交渉のカードに使えるんじゃない? それに、特許を持っていれば、論文を発表しても他社に技術を盗まれることもないし」


「Oh! ホンナラ、ネイチャー二ノセレルヤン!」


「んー、なんだか世話になっている会社を裏切るみたいで……」


「ねぇリーダー、日本を代表する企業だって、会社が危ないとなると、簡単に技術を売り渡したり、リストラしたりする時代だよ。個人が思っているほど会社は社員の一人一人を大切になんか思っていない。ちゃんと自己防衛しないといけない時代なんだよ。だからさぁ」


「わかったわかった、じゃあ三人で特許を取ろう」


「私はいいよ。もし会社と交渉する場合、力は集中させといた方がいいよ。かわりにと言ってはなんだけど、PAA with sugarの論文は私に書かせて!」


「もちろん! じゃあ特許はマシューと二人で」


「No. スベテノideasハ、アニキガカンガエタンヤ。 Me ハOKOGEのハッケンシャトシテ、ネイチャー二ノセルネン。ナヅケオヤヤシナー」


「いや、でも……」


「はいはい、たまには部下の言うことも聞こうよ」


「わかった……。じゃあ一応、みつきさんにも相談してみるよ。彼女なら事務的な手続きの方法を知っているかもしれないし」


「いや……、この件に関しては、みつきさんには……」


「えっ、どうして?」


「それは……、最近お姉さまは何かと忙しいみたいだし、私の方は部下がどんどん研究を進めてくれているから、時間もあるし。今回は私にやらせて! 言い出しっぺだし、たまにはリーダーの役に立ちたいんだよ」


「わかった、じゃあお願いするよ。でもさ、たまにはって言ったけど、玲奈はいつも僕の力になってくれているよ」


「あぁもう、嬉しいこと言ってくれるじゃん」


「アニキッテホンマ、ヒトタラシヤナァ」


「ん? ひとたらし?」


「Yes. シゼント、ヒト二アイサレルヒトヤ」


「おー、マシュー君いいねぇ、日本語の使い方マスターシテキテルヤン!」


「Oh yeah! 玲奈」


「玲奈ちゃんって呼べよな!」


「Oh no ……」






 相合傘というものは、いくつになってもいいものなんだ。


「お母様のことお聞きしました。図々しいとは思ったのですが、お見舞いに行かせてもらってもいいですか?」みつきさんにそう言われ「それなら土曜日に二人一緒でお見舞いのはしごをしよう」ということになった。


 みつきさんのお母さんが好きなプリンスメロンを右手に、母の好きなアジサイとカスミソウの花束を左手に持ち、雨の中を歩いた。


 僕の肩に雨がかからないよう、傘を斜めに差すみつきさん。


「僕はいいからみつきさんが濡れないようにして下さい」いくらそう言っても、みつきさんは傘の角度を変えてくれない。


 それじゃあと、メロンの入った袋を右肘に掛け、花束を右手に持ち替えて、左手で傘の柄を持ち、みつきさんの方に傾けようと試みた。


 だが目測を誤って、柄ではなく傘を持つみつきさんの手を掴んでしまった。


 ビクッとするみつきさん、慌てて柄の方に持ち替えた。


 失敗したなと思いつつ、みつきさんの肩が濡れないように傘を傾け歩いていると、柄を持つ僕の手のひら側からそっと手を重ねてくれた。


 青い小さな花柄のワンピースに、白いレースのカーディガンを着たみつきさんは、いつも以上に可憐さと清潔感に覆われていて、手を触れると簡単に壊れてしまいそうだ。



「先にお母様のところへ」と言われ、母の病院に向かった。


 前にお見舞いに来てから二週間しか経っていないのに、母はとても小さくなっていた。


 元々は、脂肪肝が疑われたくらい少しふくよかな方だったのに。


 癌細胞が母のエネルギーを奪い取っているのかと思うと、とても腹立たしい。


 結局オプジーボはアメリカから逆輸入したものを使用することにした。もちろん保険は効かないので、僕の預金がある間しか続けることはできない。義兄もお金を出すと言ってくれたのだが、今までずっとお世話になりっぱなしだったからと頑なに断った。


 だがとても残念なことに、放射線療法も併用しているのだが、今のところ腫瘍の拡大を止めることはできていない。


 オプジーボは間違いなく凄い薬なのだが、全ての人に、全ての癌に効く、万能薬という訳ではないのだ。


 酸素マスクを取って挨拶しようとする母を制止し、二人並んで椅子に座った。


「お疲れのところ、お邪魔してしまってすみません」

 みつきさんがそう言うと、母は首を横に振り、小さな声で「ありがとう」と答え、ゆっくりと目を閉じた。


 母は体に負担のない程度の放射線療法を続けてきたのだが、腫瘍の拡大を止めることはできていない。


 少しづつ広がっていく癌細胞が母の呼吸を抑圧し、体を動かすことも大きな声を出すことも難しくなってきている。

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