第50話 イカと日本酒

「あとこれ、ようやく所得することができたから」


 受け取って、中身を確認すると、一番上に特許証と書かれた賞状のような紙と、大量の書類が入っていた。


「これ……」


「弁理士さんと協力して、形やパターン、考えられる色々なアレンジを付け加えたものまで、穴の無いように申請しといたから、他の人に盗用される心配はないと思うよ」


 この書類の多さは、そのまま玲奈の労力を示している。

 もしかすると、Natureに投稿する論文を書く以上の時間と労力を掛けてくれたのではないだろうか。


「言ってくれたら手伝ったのに。というか、僕の名前なんだから、本来僕がやらないと」


「ううん。リーダーにはリーダーにしかできない仕事が沢山あるんだから、こんな事務的な事は手下がやればいいんだよ」


「手下って……。仲間だろう」


「うん。まあ、とにかくリーダーが喜んでくれたら嬉しいんだよ、私は」


「ありがとう玲奈。ホントありがとう」


 そう言うと、ようやく玲奈が微笑んだ。


 声は出さない満面の笑み。


 とても可愛い笑みだ。



「失礼しまーす」

 その声の後、少しの間をおいて、店員さんが入ってきた。


 大皿にのった料理と氷詰めの桶に入れられた日本酒。


 テーブルに置かれた瞬間、目を見張った。


 大皿の上には大きなイカが。


 お刺身として食べやすいよう横に細長く切られていて、縦には飾り包丁も入っている。


 それを元の姿に並べてあるのだが、切り分けられた胴の部分は半透明で、足や目の周りは、赤だったり緑だったりの色素が光輝きうごめいている。


 その上、時々足先を動かすものだから、ちょっとドキッとしてしまう。


 明らかにまだ生きている目に「おまえ、俺を食うのか?」と言われているような気がした。


「以前、家族で九州に行った時に、佐賀の呼子ってとこで食べたイカが忘れられなくて、どうしてもリーダーにそれを食べさせたくなっちゃってさ。で、このお店を探し出して来てみたら、超大当たり」


「ありがとう。凄いなこのイカ。こいつ俺を睨んでいるんだけど……、もう食べていいかな。あっ、いやいや、乾杯しないとな」


「いいよ。もう食べようよ」


「いいや、せっかく論文完成の打ち上げなんだから。はい、杯を持って」


 玲奈が手に取ったガラスの杯に冷酒を注いだ。


「ありがとうございます。ではリーダーも」そう言った玲奈に注ぎ返してもらい、僕が口上を述べた。


「伏見玲奈さん、あなたはとっても頑張りました。そのおかげで、素晴らしい論文が出来上がって、更には、とても忙しいのに、猫の手も借りたいくらい忙しいのに、僕のために特許をとってくれて。こんなに凄い仲間を持てたことを僕は神に感謝しています。これからも――」


「リーダー、長いよ!」


「あっ、ごめんごめん。では、玲奈! お疲れ様でした。 そしてありがとう! はい、カンパーイ!」


「リン」と、杯を合わせた後、二人で冷酒を飲み干した。


「おっ! このお酒、すっごくおいしいなぁ」


「でしょー。奈良のお酒で、火入れしていない生酒なんだけど、まだ酵母が生きているせいか、微炭酸を感じるの」


「玲奈、日本酒にも詳しいのか?」


「うん! でもそれを話し出すと私、長いから、とりあえず食べようよ」


「よーし。では、いただきまーす」


 切られた胴の上に、ほんの少しのわさびをのせ、醤油をつけて口の中へ。


「おおっ……」


 コリっとしているのに柔らかくて、飾り包丁も手伝って、すぐに噛み切れる。


 醤油はやや甘めなのに、イカの甘さがそれを上回り、歯ごたえがあるのに、とろけてしまうような味。


「イカって、こんな味だっけ……」


 今まで持っていたイカの概念を覆される、そんな味だ。


「でしょー。全然違うんだよねぇ。よかったリーダーも気に入ってくれて。食の好みの一致は大切だからね」


「ん? そ、そうだね。ホントおいしい」


 コリコリとした甘いイカと、爽やかな冷酒は最高にマッチして、杯を空ける暇もなく玲奈がお酌をしてくれるものだから、少々酔ってしまったかもしれない。


 酔っぱらってしまったせいだよな、これは。


 お酌するために、前かがみで腕を伸ばす玲奈の、胸元に目が行ってしまうのは。


 前かがみになると、真っ白の柔らかそうなニットが、その重みで肌から浮いていまい……。


 白のニットはそれだけでも、その中身を想像してしまうのに、その想像の正否を直接確かめさせてしまうなんて……。


 今まで一度も、玲奈のこんな谷間を見ることはなかったのに。


 あっ、もしかして、いつも玲奈が大きめの白衣をしっかり着込んでいたのは、この深い谷間ができてしまう胸を隠すためだったのか?


 困ったなぁ……。


 目のやり場に困るじゃないか。


 でも、やっぱり見てしまうじゃないか。


 でもね、それは仕方がないことなんだよ。


「哺乳類の多くは、お尻の周りから匂いを出して、私は今発情期ですよ、ということをオスに知らせている。


 嗅覚の落ちたサルは、その代わりにお尻の周りを赤く染め、アピールする。


 でも、二本足で立ってしまった人間はそれもできない。


 だから、妊娠や出産をしていない時でも胸を大きくし、自分が大人の女性だということを男性に伝えているのだ。


 だから、男がその胸に惹かれるのは当たり前で、男はその膨らみに惹かれるようできているのだ」


「リーダー!」


「ん?」


「言っちゃってるよ、独り言」


「えっ? あっ。いつから……」


「んーっと。リーダーが、おっぱいを見てしまうのは仕方がない、ってことはよくわかったよ」


 ……。


「それは……。えっと、だから……」


「いいよ、いいよ。仕方ない仕方ない。じゃあ、残ったイカを料理してもらおうね。お酒も追加しなくっちゃ」


 年下の女の子に、なだめられてしまった……。


 玲奈が店員さんを呼んで、一旦イカを下げてもらい、更に新しい日本酒を注文した。


 出てきたお酒を松浦漬なるものをあてにして飲んだ。


「なんだこれ? 複雑な味だなぁ。コリコリした軟骨? と酒かすか?」


「すごーい! リーダー大正解! クジラの上あごの軟骨を油抜きして甘い酒かすに漬けたものなんだよ。お酒に合うでしょ?」


「うん! しかもこのお酒も美味いなぁ。なんだか果物のような香りがして、飲むとスッキリとして……、凄く透明感のある味だよな。この二つがセットだと、いくらでも飲んでしまいそうだ……」


「でしょー。これ磨き二割のお酒なんだよ」


「磨き二割?」


「あー、そこからだよね、一般の人は。リーダー、日本酒はお米からできているのは知っているよね?」


「う、うん……」



 玲奈が紙とペンを取り出して、僕の横にやってきた。


 そして、その紙にお米の絵を描いて、

「お酒に必要なのはお米の中のでんぷんで、これはお米の中心部の心白というところに多く含まれているんだよ。だから、お酒を造る時は、その周りの脂質やタンパク質の多い部分を削り取っちゃうわけ」


 たんなるお米の絵なのに、玲奈の描いたお米は、何故か可愛い。


「そうなんだ。じゃあ表面の二割を削ったってこと?」


「それが違うんだよ。中心部の二割だけで作ったってこと。八割捨てちゃったってことだね」


「強烈に贅沢なお酒だなぁ。なんだかもったいない気がする」


「うん。だから削った米ヌカは加工し直して、安いお酒になったり、おせんべいなんかを作ったりしているみたい」


 おせんべいの絵も可愛いぞ。

 意外な才能だな。


「それならいいか。じゃあ、もっと削ったらもっと美味しくなるのか?」


「うん。そうとも言えるんだけど、削りすぎると香りや味わいは減ってしまうから、その辺は好みや、合わせる料理によるかもね」


「そうなんだ。全然知らなかったよ。ところで……、お酒ってどうやって造るんだっけ?」


「そこね……。んー、簡単に言うと――」


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