第25話 すき焼き
つぶさないように言われたので、慎重にそっとスジコを圧してみたのだが、結構な弾力で元の位置に戻ってしまう。
少しずつ加える力を増してゆくと、なんとかイクラを分離させることが出来るようになってきた。
見た目以上にイクラの細胞膜は強いのだな、まぁよく考えたら人の細胞も結構強いしな。しかし細胞ってホント一つ一つが小宇宙みたいだよなぁ、外部からの影響は受けるけどそれぞれ独立している。
なんてことを考えながら作業を行い、ラケット上のスジコが赤黒い薄皮だけになった時には、みつきさんは研いだお米を炊飯器にセットし、切った豆腐とウィンナーが大皿の上にのっていた。
「じゃあ、ここからは私が」
「じゃあ、僕が野菜を切りますね」
「すみません。私が招待したのに、いろいろとさせてしまって」
いえいえ、みつきさんとの共同作業はとっても楽しいですよ。
そんな言葉をスラっと言えたらいいのに……。
選手交代を行って、みつきさんの作業を眺めながら野菜を切った。
海水に近い塩分濃度(約三パーセント)のぬるま湯で洗い、残った薄皮やつぶれたイクラを取り除き、みりんと醤油を合わせたものに昆布を沈め、そこへザルで水を切ったイクラを投入、タッパに入れて冷蔵へ。
出来上がりが、とっても楽しみだ。
ご飯が炊きあがるまでの小一時間、ビールを飲みながらすき焼きを始めちゃいましょうか、ということになり、早速テーブルに卓上コンロと鉄鍋をセット。
これくらいはさせて下さいね、とみつきさんが菜箸を右手に持った。
火をつけ、鍋底が熱せられたところへ牛脂を溶かし、牛肉を二枚広げて投入、すぐさますき焼きのタレをふりかけて牛肉をひっくり返す。
瞬時に甘い醤油とお肉の焼ける香ばしい香りが広がって、「では、いただきます! さぁ、もう食べて下さい!」とせかされ、慌てて「いただきます」を言ってからお肉をつまみ上げ、溶いた卵にくぐらせてから、一気に口の中へ。
肉のうまみと香ばしさと甘み、しょっぱさ、温かさ、冷たさ、すべてが口の中に広がって、「おいしい!」と「うまい!」がこだました。
「このお肉だけ先に焼いて食べるって関西風とかですか?」
「さぁ、どうなのでしょう、おいしいお肉を頂いた時に、母がこうしてたもので。今日はいいお肉を買わせて頂きましたから」
「そうなんだ。この食べ方、いいですねぇ」
「じゃあもう一枚、これで、いっちゃいます?」
「はい是非。そうだ、ビールを忘れてた」
みつきさんが再びお肉を焼きだしたので、僕は缶ビールを開け、二つのグラスに注いだ。
「では、カンパーイ」
「カンパーイ。あっ、はい、もう食べて下さい!」
再び慌てて、お肉を口に入れ、ビールを流し込む。
「あぁ、うまい。最高だ」
「ホントですよねぇ。ビールにもすっごく合うし!」
その後みつきさんは、鍋にいろんな具材を詰め込んで、すき焼きのタレを追加してから蓋をした。
「そういえば昔、すき焼きの味付けって、砂糖と醤油とみりんをそれぞれかけて作っていましたよね? その味付けがなかなか上手くいかなくて、砂糖を入れたり、醤油を追加したり、それで今度は濃くなりすぎてお湯で薄めたり」
「あっ、やっぱりみつきさんちって関西風の作り方ですよ、たぶん。うちは割り下を最初から入れて煮込んでいましたから」
「あぁ、そうだったんですね。でも今は、この子一本でばっちりです!」
ビールを二杯立て続けに飲んだみつきさん、左手ですき焼きのタレのビンを持ち、それを右手で指さして、そんなことを言っている。
まるでCMみたいだな、笑顔がタレント以上に可愛いし、なんてことを思いながらコップのビールを飲みほした。
ほんの少しほっぺが赤いみつきさんは、いつもより少し饒舌で。
「これさえあれば、肉じゃがも親子丼も、ブリの照り焼きまで作れちゃうんです。安心安定の味ですね」と話を続けている。
安心安定かぁ、まさにそれがOKOGEとPAAの治療に一番欲しいものなんだよなぁ。
どっかにビン詰めで売っていないかな。
いやいや、売っていないから作っているんだった。
じゃあビン詰めにしてみようか。
適量になるよう混ぜて……。
「さーて、そろそろできたかなー」
そう言いながら、みつきさんが蓋を開けると、そこには。
「うわぁ、すき焼きの中にタコがいるっ!」
「かわいいでしょ?」
「は、はい……。ウインナーを入れること自体がびっくりなんだけど、その上まさかそいつがタコになっていて、そこらかしこに頭を出してたり、潜ったり……」
「でしょー。しかもおいしいんですよぉ。はい、では仕切り直してもう一度、いただきまーす」
「いただきまーす」
みつきさんの「いただきます」が大好きだ。
彼女はどんな時でも、それがカップラーメンでも、誰もいない一人っきりの食堂でも、必ずきっちりと手を合わせ、「いただきます」と言った後、嬉しそうに口角を上げてから食べ始める。
みつきさんのそんなところが大好きだ。
「いっぱい、食べて下さいねー、お母様の言いつけですから!」
「はい、わかりました」
お肉にネギと白菜と、忘れずにタコのウィンナーもうつわに取って食べてみた。
「うまーい」
一緒に煮込むことによって、野菜のうまみと肉のうまみが混然一体となっていて、関東風の食べ方もやはり捨てがたい。
そしてウインナー、これが予想以上においしくて、定番にしているというのもうなずける。
次に食べたエリンギも歯ごたえは松茸以上で、みつきさんの料理の腕は最高だ、と言いたいところなのだが、今回はすき焼きのタレの味で、安心安定の万人受けするおいしさだ。
でもたぶん、今日のすき焼きがこんなにもうまいのは、「とってもおいしいですねぇ」と目の前でニコニコしながら一緒に食べてくれているみつきさんのせいだ。
最近、僕とは離れた所で研究しているマシューが「You ソコハ、チャントヤッテヤー」と関西弁のジャニーさんみたいになって、結構威厳が出てきたという話や、佐々木課長がしょっちゅう「御影君はどうだ? 研究は進んでいるか? おこげは大丈夫か?」とみつきさんにたずねるらしく、本当は自分も現場に出て研究をしたいのではないだろうか、などという話をしながら、鍋の中のあらかたを食べつくした頃に炊飯器からメロディが聞こえてきた。
「あっ、ご飯が炊きあがりました! ちょっと待ってて下さいね」
そう言って、みつきさんはキッチンの方に走って行った。
「カチャ」「ガラ」「コトン」「バタン」「パカ」「バタン」「コト」いろんな音がした後に、みつきさんが戻ってきた。
お盆の上には、大きめのお茶碗にツヤッツヤの白いご飯、そしてガラスの器にこれでもかと入れられた光輝くイクラがのっていた。
「まだ少しばかり漬かりが浅いと思うのですが、炊き立てのご飯ができたからには、これと一緒に食べないわけにはいきません。食べ方は御影さんにお任せしますが、おすすめは熱々のご飯の上にイクラをいっぱいのっけて、一気にかきこむ! です」
みつきさんにニヤリと笑いながら見つめられると、言われるがまませざるを得ない。
ガラスの器から、流し込むように、ご飯の上にイクラをかけた。
白いご飯の上にのせられたイクラは更に輝きを増し、まるでオレンジ色した宝石のようだ。
癌細胞に例えてしまったことをイクラに謝らなくてはならないな、と思いながら、ご飯と一緒にかきこんだ。
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