第47話 選択

 こんな充実感に満たされた毎日を送れる研究者はどれくらいいるのだろう。


 皆、何かを目指して頑張っているのだが、私が今、目指している目標は、とても明瞭で、とても多くの人々を救うことができるもの凄いものだ。


 少し前まではその可能性を持っているかもしれないと信じて頑張る必要があったのだが、今はもう、ほぼ間違いなく画期的な抗癌剤になることがわかっていて、その完成に向け努力するだけで、この努力が何万人、何十万人、何百万人と数え切れない人々に、残っていなかったはずの人生を歩んでもらうことができるのだと思うと、苦にもならないどころか、それはもう毎日が最高の気分だ。


 それもこれも、リーダーがいてくれたから。


 あのうだつの上がらなさそうな見た目の、すぐに独り言を言ってしまう、どちらかというと、いや間違いなく気持ち悪いタイプの。


 でも、信じ難いほど純粋で、自然に、本人の努力なしに、心の底から優しくて、頭が凄くいいのに、凄くバカな奴。


 年上なのに、自分が守ってもらっているのに、守ってあげたくなってしまう男。


 そんなことをぼんやりと思いながら、PAA with sugar投与後のサルの肝腎機能検査のデータを一人、夜の研究室でまとめている時に、みつきさんが入ってきた。


「玲奈ちゃん、お疲れ様」


「あっ、みつきさん。お疲れ様。今日も残業?」


「ええ、ちょっとやらなくちゃいけないことができてしまったので。ここへ来たのもその件なのだけど……」


「ん? 私に?」


「そう。凄く忙しいとは思うのだけど、どうしても手伝ってもらわないとできない仕事で」


「なに? それってPAA with sugarに関することなんでしょ? 言ってくれたら何でもするよ」


「ありがとう! 玲奈ちゃんの言う通り、PAA with sugarとOKOGE Type Squadの事なのだけど、御影さんのお母様の結果から考えても、凄い薬であることは間違いないから、早く特許を出願した方がいいと思って」


「それって……。父に言われたんだよね?」


「ええ、そう……」


「……、もう出願してあるよ」


「えっ? そうなの? それ、常務には言ってないのよね?」


「うん」


「どうして?」


「それは……、会社ではなくリーダーの名前で出願したから」


「えっ……、どうしてそんなことを……」


「リーダーを……、御影さんを父に利用されるのは嫌だから。何かあった時に、特許が御影さんの力になれるように。会社の好き勝手にはされないように。と思って、信頼できる弁理士さんを探し出して、穴がないよう何度も入念に話し合って出願してある」


「そうなんだ……」


「どうするの? みつきさん」


「えっ?」


「このこと、父に報告するの? あなたの娘さん、事と場合によっては、あなたの敵になるかもしれませんよ。って」


「……」


「ねぇ、みつきさん」


「はい」


「私のことはいいよ、父にどう思われようと。でもね、御影さんのことは裏切らないで欲しい。御影さんは悔しいけど……、みつきさんのことが好きだから……」


「……」


「でも、ひとつ言っておくけど、私も御影さんが好きだから! 大人しく譲る気なんて更々ないから。だから……、御影さんを裏切っちゃ絶対ダメだからね」


「玲奈ちゃん……」


「レーナ! ケンサノケッカ、ドウヤッター。Oh. ミツキサーン、コンバンワー」


 リーダーと一緒にマシューが叫びながら入ってきた。


「玲奈ちゃんって呼べよな、マシュー」


「Oh no! Please!」


「こんばんは、マシュー、御影さん」


「みつきさん、どうしたんですか、こんな遅くに」


「ちょっと玲奈ちゃんにお願いがあって。でももう済んだので、大丈夫です。今日はこれから幹部会ですか?」


「幹部会なんて言うのやめて下さいよー」


「Squadヤシナー。ミツキサンモ、メンバーヤシナー」


「そ、そうでした、ごめんなさい」


「今日は、PAA with sugarとOKOGE Type Squadを臨床で使用する場合のガイドラインを考えようと思ってね。玲奈、検査結果はどうだった?」


「健康なおサルさんに投与した場合、三倍の量でも明らかな肝腎機能障害は出なかったから、肝毒性も腎毒性もほとんどないみたい」


「よし、では肝腎機能が低下しているような高年齢者へもPAA with sugar投与は可能だと考えていいな。まぁ、実際大丈夫だったわけだけど、これでデーター上もOKということだ。じゃあマシュー、OKOGE Type Squadの今、判明している特性をもう一度確認させてくれ」


「OK! アニキ。カジョウガキニ、シトイタデー」


 マシューが、プリントアウトしたA4用紙を配った。



・OKOGE Type Squadウィルスに感染すると宿主細胞の細胞分裂を促進し、組織再生力が飛躍的に向上する


・血液を介して感染する


・血液が、正常の皮膚や粘膜に付着しても感染しない


・汗、涙、唾液、尿、便、精液、膣分泌液にはウィルスの排出はない


・ただし、粘膜の損傷や炎症等、上記体液に血液が混じっている場合は感染する可能性がある


・空気感染、塗抹感染はしない


・母子感染(妊娠出産時の親から子供への感染)の可能性は不明


・生殖細胞への影響は不明



 みんなが真剣な表情で、一字一句に目を通している。


 だいたいは分かっていたことだけど、あらためて見てみると、ウィルスを治療に使うことの難しさを再認識させられる。


 私はこれを要約することによって、皆と確認し合おうと考えた。


「要するに、普通の日常生活を送っている限り感染することはないってことだよね。一緒にご飯を食べても、握手しても、ハグしても。キスやエッチも大丈夫?」


「Um……。チュッハOK! ブチューハ、ビミョウヤナァ」


「出血するくらい激しいやつや、歯肉炎とかで出血していたら、感染する可能性はあるな」


「エッチも同じか……」


「お互い健全な状態で、穏やかにすれば大丈夫だと思うけど……。避妊具を使うのがベストだろうね」


「じゃあ危険なのは、やっぱ医療行為だよね」


「うん、患者さんの血液が体の外に出る機会が多いからね。B型肝炎やC型肝炎と同じくらいの感染力と考えて、対応すべきだと思う」


「一番の問題は、受精、妊娠、出産を含め、長期成績がまだ全く分かっていないことか……」


「Yes. ダカラ……、ホンライ、マダ、ツカウベキデハナイ……」


「でもさ、リーダーのお母さんのように、今、使わないと死んでしまう人もいるんだよ? 今これを使えば、これから何年も生きられる人が」


 みんなが黙り込んだ。


 みんながそれぞれに、自分なりの答えを出そうと考えている。


 でも、これには100%正解という答えはないように思う。


 そう思うと、リーダーの言葉を待ちたくなった。


「正しい答えは、僕にはわからない。でも……」


 皆が黙って聞いている。

 リーダーの次の言葉を待っている。


 普段は全く、何処もかしこもイケていない、とってもダサい男なのに、マザコンの研究オタクなのに。

 でもなぜか、こういう時だけは、誰かを、何かを、導く人になる。


「僕は、この薬で、今すぐにでも、できるだけ多くの人を助けたい。沢山の人に、新しい時間を過ごして欲しい。おいしいものを食べて、ゆっくりと眠って、そして好きな人と一緒にいて欲しい。でも、もしも、その選択が間違っていた時に、その責任を未来の人たちに背負わせるわけにはいかない。だから、この薬を使うのは、他の治療法では癌を克服できない人で、ほぼ生殖能力が無くなっていると思われる60歳以上の人、限定にしたいと思うのだけど。どうだろう」


 マシューがすぐに答えた「I’m with you!」と。


 私の気持ちも全て、このマシューの発した短い言葉に含まれていた。

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