第10話 青いポピー

 今回も前回と同一の手技で、マウスC、マウスD、二匹の腫瘍に前回の最少量0.00125ml のP-SEを注射した。


 そしてマウスCには一週間後から抗生剤を三日間投与、マウスDには二週間後から三日間同量の抗生剤を投与した。


 マウスC、マウスD共に、P-SE注射三日後から腫瘍は小さくなり始め、抗生剤投与四日目から腫瘍の縮小は停止、七日目からは再び増大傾向となった。


 だがやはり、大きな問題が発生した。

 抗生剤を投与しても腫瘍周囲の正常組織は再生されず、壊死を起こしてしまったのだ。


 P-SE注射一週間後から抗生剤を投与したマウスCは、この壊死の範囲は少ないのだが、腫瘍の縮小はほんのわずかで、すぐに増大傾向となり、抗癌剤としての効果はほとんど発揮できなかった。


 二週間後から抗生剤を投与したマウスDも一度は2/3程の大きさまで腫瘍は縮小したが、結局は再び増大傾向となった上に、周囲の正常組織の損傷は激しく、腫瘍の周りに黒い溝ができてしまった。


 結局のところ、抗生剤投与を早くすると抗癌効果はほとんど得られず、遅くすると周囲の正常組織をひどく傷めてしまう。


 そして一度傷んでしまった周囲の組織は、腫瘍が再び増大しだしても修復はされず、マウスDはその損傷のために死んでしまった。


 ということは、抗癌効果を十分発揮させるまで抗生剤投与を遅らせれば、更に周囲の正常組織の損傷は深刻なものとなり、間違いなく死に至ってしまうだろう。


 抗生剤投与による研究は、これ以上は無意味だ。


 もう、マシューが培養生成してくれたアミノ酸を直接投与する研究にシフトするしかない。



 僕たちはP-SEから培養生成したアミノ酸をPAAと名付けた。

 しかし、その研究は技術的な問題が立ちはだかり、着手することができないでいる。


 今までの研究結果から、P-SEは皮膚表面のように角質細胞に防御され、汗や他の常在細菌による自浄作用のある部位ではマイルドに効果を発揮するが、生体内においての作用は強力で、触れた細胞に軒並みアポトーシスを起こさせてしまう。


 このことから、このP-SEから培養生成したPAAは、おそらくもっとダイレクトにアポトーシスを起こさせるのではないかと考えられる。


 ということは、PAAを注射する時に少しでも腫瘍外に液が漏れれば、正常組織をことごとく傷めることになってしまうだろう。


 そして、動くマウスの腫瘍内だけにピンポイントで注射をすることはまず不可能だ。


 PAAはP-SEとは違い、自動生産されないので、少量ずつ何度も注射をしなくてはならない。


 麻酔をかけて眠らせればマウスは動かなくなるが、短期間に何度も麻酔で眠らせることは、体の小さなマウスにとって大きな負担となり、死亡してしまう可能性もある。


 このままでは研究を始めることさえできない。



 そんな、悶々とした日々の中、約束の日曜日がやってきた。






 今日の約束をして以来、僕の心情は強烈なアップダウンを繰り返した。


 衝動的に口をついて出たデートへの誘い、しかもそれは中学生以下の拙い言葉だったのに、憧れに近い感情を持っていた女性が応じてくれた。


 それはもう天にも昇る気持ちで、もしかしたら自分に好意を持ってくれているのかもしれないと思うと、体が本当にふわふわする。


 常にその人のことが気になって、いつもその人、朝比奈さんの姿を探してしまう。

 たとえ彼女を見つけたところで、用事もなく声をかけることなど、僕にはできないのだが。


 そしてあらためて思い出す、マシューの存在。


 それは僕を昇った天から叩き落とし、最初に立っていた地表よりもめり込んで、地面の下に埋めてしまう。


 デートと思っているのは僕だけで、一緒に働く職場の友人と太陽の下で健全にコミュニケーションを取ろうと、彼女は思っているのかもしれない。


「僕に好意を持ってくれていますか?」もしもそう尋ねたら、きっと彼女はこう答えるはずだ、「はい、もちろん。私は御影さんのこと好きですよ。でもそれは特別な気持ちではありません。私にはマシューがいますので」と。


 あの関西なまりの日本語で「ミツキ、スキヤデー」と言われ、「私もよマシュー、愛しているわ」と応えながらキスをする。


 あのどこから見ても清楚でけがれのない朝比奈さんが、背伸びをしてマシューのTシャツを脱がし、白くスリムで瑞々しいマシューの身体があらわになる。

 そのマシューは、はにかみながら朝比奈さんの純白のブラウスのボタンをはずしていく。


 そして二人は、あんなことや、こんなことや、そんなことまで……。


 あぁ……。

 想像すると息ができなくなってしまう、もう吐きそうだ。


 しかも、マシューとは毎日顔を合わせる。

 マシューはこの研究になくてはならない大切な仲間で、その上、なぜか僕のことをアニキと慕ってくれている。


 彼が「アニキー」と呼ぶ時の愛らしい笑顔を素直に受け止められないことがとても辛い。


 朝比奈さんのことをアイドルのように「いいなぁ、かわいいなぁ」と思っているだけなら、こんな気持ちになることはなかったのに。


 そして今、僕が指示を出し、彼がそれに応え、苦労を重ねて培養生成してくれたPAAを試すことさえできないでいる。


 頭の中に、何を思い浮かべるかによって、一瞬で急上昇、急降下する心情の中、待ち合わせの三十分も前、十時半に着いてしまった。


 動物園のゲート前、次々と家族連れがやってきて、皆、幸せそうな表情をして入っていく。


 20%程度の割合でカップルもやってきて、やはり皆、幸せそうな表情をして入っていく。


 たまに友達同士や、年が相当離れているように見える関係不明の男女もやっては来るが、暗い表情の人は誰一人としていない。


 動物園というところは、どこか穏やかで微笑ましい間柄の人たちが来るところで、今の自分には場違いなのではないか、という気がしてきた。



 僕が下を向いてため息をひとつついた時、なにか動くものが視界の左上方に入ってきた。


 顔を上げ、そちらの方を見てみると、ひとりの女性か近付いてくる、いや、駆け寄ってくる。


 ストローハットを被ったその女性はブルーのリネン生地のワンピースに白のカーディガンを羽織っている。

 膝下まであるスカートとストラップ付きのサンダルが良く似合っていて、爽やかさが際立っている。

 まるで青いポピーのようだ。


 遠くからでもひとめでわかってしまう朝比奈さん。


「走らなくていいから」と両手を上げて抑える仕草をしたのだが、走るのをやめようとしない。

 慌てて駆け寄った僕と、勢い余ってぶつかりかけ、お互いの両手を合わせ押し合う形になった。


「あっ、ごめん」

「ごめんなさい」


 すぐに手をひっこめた朝比奈さんだが、口に手をやり、おかしそうに笑っている。


 朝比奈さんの笑顔がすぐそこにある。

 それだけで、さっきまでの憂慮はどこかへ消し飛んでしまった。


「行きましょうか」


 手を取り歩き出したかったのだが、それは恐れ多すぎで、できなかった。



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