第2話 朝比奈みつき

 あの微笑は、どういう意味だったのだろう。

 戒めの「見たわね」なのか、容赦の「しょうがないわね」なのか、はたまた見られたことに対する照れ隠しの微笑みだったのだろうか。


 じっと覗き込んでしまった自分に後悔の念を抱きながら会議室の席に座った。


 あの微笑を思い出すと頭をかかえて布団の中に潜り込みたい気分になった。


 茫然とデスクに突っ伏していると、朝礼開始時間丁度に佐々木課長が入ってきて、演台の上で話し始めた。


「はい、みなさんおはようございます。今月もあとわずかです。研究スケジュールに遅れが出ないよう、個々のノルマを必ず達成して下さい」


 毎週これだ、佐々木課長の決まり文句。

 ほとんどこれしか言うことはない。

 あとは、上司へのおべんちゃらか、業務連絡くらいだ。


「今日はみなさんに新しい仲間を紹介します。朝比奈さん、こちらへ」


 えっ! あっ!!


「朝比奈みつきさんです。伏見常務のご提案で、みなさんの事務的な手伝いをしてくれる研究補助業務についてもらいます。郵便物の配送や文献の取り寄せ、各種消耗品の手配等、これからは彼女を通して行うようにして下さい。では朝比奈さん、一言どうぞ」


 新しい女性スタッフが加わるという刺激と、研究補助というものがどのような業務なのか、これから自分たちが彼女にどう依頼したらいいのか、皆が口々に隣の者と話し始め、会議室内がざわついている。


「おい、みんな」と注意しかけた佐々木課長を笑顔で止めて、朝比奈さんは微笑みを湛えたまま正面を向いてじっと待っている。


 その彼女に気付いた者が、自ら話すのをやめ、周りをも制した。


 誰の注意もなしに戻った静寂の中、彼女は何の前置きもなく話し始めた。


「再生医療の未来を変えるiPS細胞も画期的な抗癌剤オプジーボも、誰もが一度はお世話になったことがあるであろう痛み止めや、私が毎日使っているシャンプーまで、そのすべては皆様のような優秀な研究者の方々が、想像を絶する膨大な時間をかけ、たゆまぬ挑戦を続けてこられたおかげでできあがった努力の結晶です。私は皆様のような知識や技術は持ち合わせておりませんが、皆様が大切な研究に集中できるよう、少しでもお力になれればと、この仕事に就かせて頂きました。私、朝比奈みつき、二十九歳はまだまだ未熟で、至らない点も多いとは存じますが、精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します」


 そう言って、美しいお辞儀をした朝比奈さんが頭を上げて微笑むまで、会議室内は静まり返っていた。


 そして、誰かが始めた拍手をきっかけに、この社内で聞いたことのない万雷の拍手が巻き起こった。


iPS細胞を開発した山中(やまなか)教授やオプジーボの本庶(ほんじょ)佑(たすく)先生のことは誰もが知るところだろう。


 しかし、その開発には数多くの研究者それぞれが途方もない時間をかけてサポートしていたはずであるのだが、そのスタッフの名前を知る人はほとんどいない。


 世紀の大発明ですら、そうなのだから、一般に出回っている薬品や商品の開発をした末端の研究者の、永遠とも思える地道な作業を称賛されることはまずない。


 それを褒めたたえ、手伝いたい、という彼女の言葉は、この会議室にいる全ての研究者の心を優しく掴んだのだ。

 このとても短い挨拶だけで。


 僕自身も、自分たちのことを理解してくれる人もいるのだと、報われた気持ちを抱き、研究室に戻った。




 俄然やる気が出てきた僕は、その日から、おこげの腫瘍の大きさを計測することにした。


 最初は1×1cm大だったものが日に日に大きくなり、四週間後には3×4cm大になった。


 心なしか体も少し湾曲してきたように思える。


「どうする? おまえこのままじゃもうすぐ死んじゃうよな? 食欲はあるんだよな。他のモルモットより体が大きくなっているし。でも、歩き方もちょっとぎこちないよな?」

 そう話しかけると、じっと僕の目を見るおこげ。


 話し掛けると、いつも何かしら反応してくれることが多いので、本当に話し相手ができたような気分だ。


 そんな思案をしている時に、スマートフォンの通知音がした。

 画面を開くと姉、宮前和子からのメッセージだった。


【毎日忙しいのに、昨日一緒に病院まで行ってくれてありがとう。医療に携わっている治也君が一緒だと、お母さんも安心できるみたいです。ところで、夫が読んでいる本にC型肝炎にかかっている人の四人に一人は肝臓癌になると書かれていたのですが本当ですか? また時間のある時に教えて下さい】


 そう、残念ながらその本に書いてあることは正しい。


 姉が落ち込まないよう。書いてあることは正しいが皆が肝臓癌になるわけではない、医学の進歩はすごいから、そのうち母を治せる治療法が確立されるかもしれないよ、と打ち込んで返信をした。


 だから頑張って薬剤師になった。

 そして本当ならその癌を治すための研究を今ここでしているはずなのに、実際やっているのはこんな化粧水の研究。


 いやまてよ、そう言えばこのP-SE、角質細胞のアポトーシスを促して新陳代謝を活発にするって言っていたよな。

 癌細胞はアポトーシス機能が壊れてしまったために、制御不能な増殖を繰り返して大きくなる。

それなら、もしかしたらこのP-SEは癌に効くんじゃないのか?


 そう思い付いた時、僕の視界の中心にはおこげがいた。


「おまえ、このままじゃ死んじゃうんだよな。いやいや、こんなもの効くわけないか。でも……」


 ジッとこちらを見るおこげ。


 もともと実験用モルモットなわけだし、このP-SEを試してみてもいいよな? という気持ちと、すでに約一か月間一緒に生活をしてきて、話し相手になってもらっているおこげが、自分の思い付きだけで、もしも死んでしまったら絶対後悔する、という気持ちが心の中で交錯した。


「どうしたらいい? おこげ」


 返事をするわけはないのに、思わず聞いてしまったその時、「キューイ」と鳴いたおこげが目を閉じてうなずいたように見えた。


 きっとたんなる偶然なのだろう。


 だがこの時の僕には「やってみろ」と、おこげに後押しされたとしか思えなかった。






・朝比奈みつき(あさひなみつき、29歳)

・御影和子(みかげかずこ、42歳、御影治也の姉)

・角質細胞(皮膚の一番表面にある固くなった細胞)

・アポトーシス(生物の体を良い状態に保つためにプログラムされた細胞の自殺、細胞死。人の身体は常にアポトーシスと細胞分裂を繰り返している)

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