第90話 受容
翌日、
約束通りの時間に携帯電話が鳴り始めた。
ソファに座って、その携帯電話は左手で持っていた。
受話ボタンを右手で押して、その右手はそのままみつきさんの左手を掴んだ。
「ハルヤ。考えてくれたか」
「はい、大統領」
みつきさの手をぎゅっと握りしめた。
「僕は……、決行を望みます」
それだけはちゃんと見届けよう、そう思った。
「ありがとう、ハルヤ」
その短い言葉から、追い詰められていた大統領の気持ちが伝わってきた。
その次の日、僕は日本にテレビ電話を掛けた。
元気な彩乃の笑顔と、その後ろで涙ぐむ姉と、涙をこらえる義兄の姿を見ることができた。
マシューをけしかけ、結婚式を挙げさせた。
マシューとアリアの幸せそうな笑顔を見て、今起こっている世界中の出来事を忘れることができた。
玲奈が大統領自由勲章を受章した。
僕たちがやってきたことを、頑張ってきたことを称えてもらえた、そう思うことができて、マシューとアリアとレヴィと肩を抱き合い涙を流した。
玲奈は「大統領って、近くで見るとめちゃくちゃカッコよかったよ」と、とても興奮をしていた。
みつきさんと動物園に行って、帰りにスーパーで買い物をした。
みつきさんの両腕のアザは、OKOGEの感染によって妻を亡くしてしまった男に殴られたのだと「大丈夫でしたか?」とレジで僕に問いかけてきてくれた店主から聞かされた。
やはり、みつきさんは僕のせいでひどい目に合っていたのだ……。
それを隠してくれていたみつきさんには何も言わず、その手を取って、一緒に家に帰った。
一緒にご飯を作って、一緒に食べて、一緒に笑って、そして一緒に眠った。
レヴィに休みを願い入れCDCのデスクを整理し、玲奈に断りを入れてみつきさんを独り占めにして、ずっと二人で一緒に過ごした。
あんこを携帯用のゲージに入れて、おこげの遺体が置かれている資料室に一緒に行って、皆で拝んだ。
一か月後。
テーブルの上に置いてあった携帯電話が鳴り響いた。
「今夜決行する。効果が表れるのは、おそらく三日後の朝だ。ハルヤ、すまなかったな」
「いいえ、大統領。ありがとうございました」
三日後の朝。
僕は丹念に出汁をとったお味噌汁を作り、ご飯を炊いた。
みつきさんは、大根のぬか漬を切って、少しお砂糖を入れた甘めの卵焼きを作った。
手を合わせ、両方の口角を上げ、にっこりと微笑んだみつきさんが、いただきますをした。
僕は世界で一番好きなその顔を見ながら、いただきますをした。
一口含んだお味噌汁は、一口なのにとても深い味わいが頭の中までしみわたった。
白くつやつや輝くご飯は、どこまでもあたたかく、ふくよかで、優しく体の中を満たしてゆく。
甘い卵焼きは、子供の頃に家族みんなが集まり肩を寄せ合ったコタツのある部屋を思い出させてくれた。
そして、ぬか漬けは、優しく抱きしめてくれた母の手の匂いを思い出させた。
音を消していたテレビでは臨時ニュースが流れ始めた。
みつきさんがスマートフォンを手に取り、画面を見て小さくうなずいた。
しばらくすると、テレビの映像が途切れ、救急車の音が聞こえてきた。
僕はみつきさんを抱き寄せた。
「これから何が起こっても、ここでこのまま僕を抱きしめていて欲しい」
朝の八時に研究室に着き、メールチェックをしようとパソコンを開いた。
OS が起動しネットに繋がった途端、一貫性のない緊急ニュースが次々と流れ出した。
何かが起こってしまった。
直感的にそう思った。
すぐにマシューがやってきて「いったい何が起こったんや」と、つぶやくように声を出した。
そして同時に、二人のスマートフォンが震え出した。
すぐに取り出しメッセージを開けた。
【ごめんなさい。今すぐ御影さんの家に来て下さい。御影さんを助けてあげて下さい】
顔を上げるとマシューと目が合って、それと同時に走り出した。
建物を出ると、街じゅうがパニックを起こしていて、道はクラクションを鳴らす車で溢れかえっていた。
「車はあかん、走ろう」
マシューにそう言われ、一心不乱にリーダーの家を目指し、懸命に走った。
何度も足がもつれ、ついには濡れた芝生の上で滑り倒れてしまった。
マシューが心配そうに振り返っている。
「マシュー、先に行って! 私もすぐに行くから」
マシューは何も言わずにうなずいて、再び走り出した。
脚が鉛のように重くなって、胸が破裂しそうなくらいに痛んでいる。
走れば走るほど胸が苦しくなって。
開いたままの玄関を通り抜け、廊下を進んだところにはマシューが茫然と立ち尽くしていた。
「どうしてなんだ。どうして……」
リーダーの悲痛な声が聞こえてきて、私は無意識のうちマシューの横をすり抜けて、その前に回った。
リーダーが、ソファの上で横たわるみつきさんを抱きかかえている。
「どうしてなんだよ。ちゃんと酵素を三回打って、もうOKOGEは体の中にはいないはずだろ!」
みつきさんは懸命に目を開け、それに答えた。
「ごめんなさい。酵素を打つ時はお薬を飲まないようにしていたのです」
「えっ、そんな……。どうして、どうしてそんなことを……」
「私は自然の摂理に従えなかったから……」
「そんなことない! みつきさんはいつも、必要以上のことは何も望まなかった。ちゃんと毎日を大切にして生きてきたじゃないか!」
みつきさんが、それを聞いて首を横に振る。
いったい何が起こっているのか、二人が何の話をしているのか全くわからない。
でも、今は二人を見守るしかないのだと感じた。
「私は、一緒にはかなえることができない二つのことを望んでしまったから」
「二つ……。いったい何を……」
「一つは、御影さん、あなたと死ぬまでずっと一緒にいられること」
「そんなこと……、今もこれからも僕はみつきさんと……」
みつきさんが、また首を横に振り話を続けた。
「もう一つは、御影さんがちゃんと幸せになること。御影さんの遺伝子がこれからもずっと引き継がれていくことなのです」
「そんなの、僕はみつきさんと一緒にいられればそれだけで……」
またみつきさんが首を横に振る。
「私はその両方を、どうしても諦められなかったのです。全部、私の我儘なのです。それにきっと御影さんは……、全てが終わったら、死んでしまうつもりだったでしょ?」
リーダーは何も答えず、下を向いた。
「御影さんはとても優しい人だから……。私のとても我儘な望みも、きっとかなえてくれますよね?」
答えを求めるみつきさんの微笑みを見て、ようやくリーダーは大きく二回うなずき、
両腕でみつきさんの頭をすっぽりと覆い、みつきさんの全部を抱きしめた。
みつきさんの顔は見えなくなったけど、きっと最後まで笑顔だったに違いない。
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