第89話 その先を目指して

 どうすべきなのだろう。

 どちらを選ぶことが正しいのだろう。

 

 十九億の人の命を犠牲にして、未来の人類を守るべきか。


 だが、もしかすると、もっとすごい薬ができて、人の命を奪わずにOKOGEだけを一掃することができるようになるかもしれない。


 人々の意識が変化し、皆が抗OKOGE酵素を打ってくれるようになるかもしれない。


 でも、それを待っていて、ずっと待っていても、そうならなければ、更に多くの命が削られていって、もしかすると人類が滅亡してしまう、かもしれない。


 どちらにせよ、それは僕が生み出したものによって行われるのだ。


 頭の中で、ずっとそれが繰り返されていて、気が付くと、何もなかったように、またみつきさんの膝の上に寝かされ、頭を撫でられていた。


「ねぇ、みつきさん。どうして僕はこんなに頑張ってしまったのだろう。どうして人は頑張ってしまうのだろう。それがどんな結果を生むのかもわからないのに」


 みつきさんは何も答えず、今日あった出来事を一生懸命話す子供の言葉を聞くような表情をし、微笑んでいる。


「人はご飯を食べるために、自分を守るために、自分の家族を守るために、頭を使い、道具を使い、火を使い、物を作って、共同生活をするようになった。今の僕たちは、もう十分にその全てが満ち足りているのに、どうして努力を続けているんだろう。その努力が自分たちの首を絞めることになるかもしれないのに。僕はその典型になってしまった……」


 頭を撫でてくれていたみつきさんの手が激しく揺らされ、髪ごと頭をくしゃくしゃにされた。


 そして、もう一度、先程よりも少し力を込めて丹念に撫で始めた。


「御影さんは、バタフライエフェクトという言葉をご存知ですよね」


「うん。蝶が羽ばたく程のわずかな変化を与えるだけで、その後の状態を大きく変えてしまう、ということの比喩だよね?」


「はい。でもね、私は思うのです。そんなの蝶にとっては、知ったこっちゃないって」


「知ったこっちゃない……」


「はい。だって蝶は何かを目指して一所懸命飛んでいるだけで、そのせいで後に何が起ころうと、知ったこっちゃない。どんなことが起こってしまったところで責任なんて何もないのです」


「それは確かにそうだけど……。でも人は蝶と違って未来の事を考えることができるから……」


「そうですね。でも、考えた通りになるとは限らない」


「うん」


「だってそれは当たり前ですよね。蝶が羽ばたいたことによって何か大きな結果を生んだとしても、それは蝶が羽ばたいたせいだけではないのですから。他の数え切れないくらいの要因が重なって、結果を生むのですから。だから御影さん。今のこの世界は、御影さんのせいなんかではないのです。何かが違えばこうはならなかったかもしれないし、御影さんがOKOGEを世に出さなければ、もっと酷いことになっていたのかもしれないのです。どうなるかなんて誰にも分らない。御影さんは癌を治すために頑張った。OKOGEで苦しむ人たちのために頑張った。ただそれだけなのです」


 おでこの上に涙がいくつも降ってきた。



「どうしてみつきさんが泣くんだよ」


 そう言うと、みつきさんは「だって……」とだけ言い、自ら体を入れ替えて、泣いた顔を隠すように僕の胸に突っ伏した。


 今度は僕がみつきさんの頭を撫でた。


 つるつるで、しっとりしていて、肌よりも少しひんやりしていて。


 撫でるごとに、いい匂いがして。


 撫でている方が癒されてしまう。



 音を消したテレビには、動物たちの姿が映し出されていた。


 道路でひかれ死に絶えている沢山の動物たち。

 モーターボートのスクリューに傷付けられたマナティーの背中。

 アカウミガメの胃の中から出てくる大量のビニール袋。

 重油にまみれ飛べなくなった海鳥たち。

 餓死寸前のやせ細ったシロクマ。

 溶けた流氷から落ちる子供のアザラシ。


 いつの間にか、みつきさんも顔を横に向け、その画面を見ていた。


「ねえ御影さん、私すごいことを言っちゃいますけど……。人間はもう少し数を減らした方がいいのかもしれませんね」


「えっ?」


 予想だにしなかった言葉に驚いて、みつきさんの顔を覗き込んだ。

 だが、みつきさんはテレビの画面の方を向いたままで、その話を続けた。


「だっておかしいでしょ。地球上には数え切らない程の生き物がいるのに、人間だけが明らかに数を増やし過ぎている。そのせいで沢山の生き物が数を減らし、絶滅さえもしてしまう」


 確かに今言ったみつきさんの言葉にはどこにも間違いはないように思う。


「それはそうかもしれない。僕も以前思ったことがあった。人の命は地球よりも重いって言葉があるけど、なんて傲慢な言葉なんだって。これはテロリストから人質を助ける時に用いられた言葉だけど、人間のエゴがそのまま表れてしまっている」


 みつきさんは画面の方を向いたまま「本当に」と、うなずいた。


「私……、好きな人と一緒においしいご飯を食べることができる、生き物にとってこれが全てだと思うのです。でも人間だけがそれ以上のものを望んでしまって、そのせいで沢山の生き物が死んでいく」


「ホントだね。ホントそうだ。人間だけが目の前の幸せに満足できず、その先を目指していく。そのおかげで科学や文明が発達してきたわけだけど、もしかしたら、そんなことは全く必要のないことなのかもしれない」


「だったら……」


「だったら?」


 みつきさんは僕の胸から顔を上げ、僕の顔を正面から見つめた。


「人は、少し前に戻った方がいいのかもしれません」


「少し前に?」


「はい。毎日の生活も、人の数も、少し前の時代に」


 そう言って微笑みを作るみつきさんの思考は、また僕の予想を遥かに越えていた。


「OKOGEはもしかしたら、創造の神が送り込んだのかもしれません。増えすぎた人間を傲慢になりすぎた人間をいつまでもたっても満足することのない人間を地球から剥ぎ取るために」


「神の意志ということ? じゃあ……、僕はそのために利用された?」


「それはどうなのかはわかりません。でも、御影さんが手を加えたことによって、若さや寿命の調節を望んだ人、自然の摂理に反したことを望んだ人を選別することができた。傲慢で自己中心的な性格を持つ遺伝子を後世に残さないようにできたのではないでしょうか」


「でも、望まずに移された人だっている」


「その人たちのために、ちゃんと御影さんはそれを治す薬を作り上げたじゃないですか」


 みつきさんが再び僕の胸に頬をつけ、ぎゅっと僕を抱きしめる。


「だから、御影さんは何も悪くないのです。もしこれから沢山の人が亡くなっても、それは地球にとって必要なことなのかもしれないから」


 きっとみつきさんは、僕のために必死でこの話を考えてくれたに違いない。

 僕の事をみつきさんは必死に守ろうとしてくれている。


 でも、OKOGEを作り上げたのは間違いなく僕だ。

 神が作った生物の最も根底にある自然の摂理、遺伝子に手を加えてしまったのは僕自身なのだ。


 だから……。


 僕はみつきさんの頭にキスをして、そのままそこに顔をうずめた、いい匂いのするみつきさんの髪の中に。


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