第84話 抗OKOGE酵素

 ルートの中を抗OKOGE酵素の入った白い液体が進んで行く。


 それが針を通って、血管の中へ。


 みんなの緊張感が伝わってくる。


 心電図に乱れは見られない。


 医師がボタンを押し、自動血圧計が動き出した。


 血圧160/90 。


 少し高いが、きっと男性も緊張しているのだろう。


 脈拍76 。


 少し早い。


 一分が経ち、男性が大きく息を吸った。


 皆に緊張が走る。


 だがそれは、自らの緊張を解きほぐそうと深呼吸をしただけで、皆の視線を感じた男性は苦笑いをし、頭をかいた。


 五分が経ち、十分が経った。


 血圧は145/65 、脈拍 58 。


 完全に正常範囲だが、アナフェラキシーが起こると血圧は急激に下がっていく。


 あまり下がってくれるなよと、心の中で祈った。


 医師が男性の病衣をめくり、皮膚に発疹などが出ていないかを確かめた。


 出てはいなかったようだ。


 医師は「何かあったらすぐに呼んでくれ」そう看護師に伝え、病室を出て行った。


 一安心、なのかもしれないが、投与から一時間は予断を許さない。


 その一時間は、僕たちにとって、とても長い一時間だった。




「よかったぁ」


「もう大丈夫ですね」医師のその言葉と共に、心電図の端子や点滴が外されていく。


 男性もほっとした表情を浮かべているが、天を仰いで胸を撫でおろしたのは玲奈だった。


 玲奈が発案し主導してきた抗OKOGE酵素がようやく完成に近付いてきたのだ。


 何度も挫けそうになりながら、沢山の人の力を借りて。


 だが、まだ臨床実験が始まったばかりでもある。


 その後、僕たちは同様の試験投与を四人の協力者に行って、事なきを得た。


 抗OKOGE酵素がアナフェラキシーや急性反応を起こしやすい物質ではないことが確認できた。


 次は、実際治療時に投与する予定の半分量を投与する。


 1/2量で、その効果と毒性の有無を確認する。




「よかった……」


 今回も幸いなことに、軽微な発熱以外、大きな副作用が発現することはなかった。


 だが、投与後の検査では、細胞内のOKOGE特異的塩基配列は全く元のままだった。


「やはり抗OKOGE酵素単剤ではダメだったな」


 生体マウスの実験で判明していたのだが、抗OKOGE酵素を単独で生体内に投与すると、先に血管内にいるOKOGEウィルスに反応してしまい、細胞内の塩基配列にまでは届かないのだ。


この為に、まず先に抗HIV薬を投与し、血管内のOKOGEウィルスを極力減らしてから抗OKOGE酵素の投与をしなければならない。


この複合投与が新たな副作用を生まないかどうか、それが心配で、まずは抗OKOGE酵素の単独投与を行ったのだ。


「よし。次は抗HIV薬の内服を続けている人への投与を行う。いよいよ、本当の本番だ」

マシューと玲奈は唇を噛みしめ、しっかりと頷いた。




「どうなんだ、マシュー」


「ちょっと……」


「もう! どうなのよ!」


「も、もうちょっと待ってや――」


 抗HIV薬による治療プラス抗OKOGE酵素を投与した患者十人のデータを解析し、今まさにその結果が出ようとしていた。


「アニキ……」


「なんだよ」


「俺たちは……、やったで。ついにできたんや! 玲奈、やっぱりこいつは凄いで! この抗OKOGE酵素やったら、体の中のウィルスを……、やっつけることが……」


「よーっし!」

「あぁ……」


 泣き崩れるマシューを横に、玲奈とハイタッチを交わし、歓喜した。


 いやそれは、歓喜なんてものではなく、三人で肩を組み、意味をなさないような大声をあげながら何度も何度も飛び跳ねた。


 少し離れたところから見ていたアリアも加わって、四人で泣きながら笑いながら狂喜した。


 しばらく続いた激しい興奮が治まってからも、涙は止まらず深い感慨がずっと続いた。


 ここまで辿り着くことができた。


 ここまで来れると信じてはいたが、それは信じるしかなかったからだ。


 確証などどこにもなかった。


 ようやく来れた。


 これでようやく、世の中からOKOGEを無くすことができる。


 彩乃を、そして、みつきさんを助けることができるんだ。




 平均で、OKOGE特異的塩基配列の約80%を溶解することができた。


 そのまま放置すれば、残ったウィルスが再び増殖、全身へと広がっていってしまう。


 だが、抗HIV薬を継続しつつ、抗OKOGE酵素投与を二三度重ねれば完治することが可能なはずだ。


 この結果をOKOGE対策チームのページに書き込んだ。


 詳細を書き込んでいるうちに、掲示板が動き出し、それを見た人がまた書き込んで、CDCの施設全体から歓声が上がっているような錯覚に陥る程、歓喜にあふれた称賛と、お祝いの言葉と、そして安堵の思いで満たされていった。


 レヴィが駆けつけてきてくれて、再び皆で抱き合った。


 本来、多数の臨床試験を経たのち、認可を受けて販売となるわけだが、保健福祉長官エリックとレヴィが話し合い、大統領に抗OKOGE酵素特別措置案を提出した。


 現在、申し出てくれている協力者の治療を積極的に行って、その効果と安全性が確認できれば、全米の各州に指定病院を制定し、希望者を募り無料で治療を開始する。


 そして、十分な安全性が確立されれば、現在抗HIV薬治療を行っている全ての医療施設で治療を受けられるようにする。


 この案は、大統領の「うちの妻も是非参加させてくれ」という言葉と共に、即座に承認された。






「おかえりなさい」


 そう言って玄関まで迎えに来てくれたみつきさん、僕はその場で鞄を持つ手を放し飛びついた。


「ど、どうしたのですか、御影さん」


 キョトンとするみつきさんを強く抱きしめる。


「できたんだ。これで君を、みつきさんを治すことができる!」


 みつきさんは黙ったままで、僕の腰に回した腕を引き寄せた。

 そして「よかった……」と、心の奥底から溢れ出てきた思いを言葉にした。


 その後に「本当にお疲れ様でした」という言葉と「これからは少しゆっくりして下さいね」が続いた。



「治せるんだよ! 治るんだよ、みつきさん!」


 興奮が治まらない僕を見て、キッチンに行こうとしていたみつきさんが戻ってきた。


 ソファに座る僕の頭を自分の胸にすっぽりと納め、ぎゅっと両腕で抱きしめ包み込んでくれた。


「ありがとう御影さん。あなたに出会えることができて私は本当に幸せ者です」そう言ってくれた。


 この時の、しっとりとした温もりと甘い柔らかさと安堵できる香りを僕は一生忘れない。



「いつ打つ? いつ打とう。みつきさんは抗HIV薬をちゃんと続けているから、いつでも打てるんだよ。早ければ早い程、寿命が延びるわけだし。でも、もう少し症例数が増えて安全性が確認できてからの方がいいか……。いや、でも少しでも早い方が……。ねぇ、みつきさん! どうする?」


 土鍋を持ってきたみつきさんが、ようやくソファに座ってくれた。


 今日は湯豆腐らしい。


「私は……」


「やっぱり、今の臨床試験が終わったらすぐにしようか。フォーサイス大統領の奥様もその時に打つ予定になっているし」


 みつきさんは、少し考えてから話し出した。


「そのお薬の量は十分足りているのですか?」


「いや、まだ大量生産できる体制にはなっていないから……。でも僕から頼めば――」


「私は、一般の方々と同じ時に受けます。私のことは多くの方がご存知だから、御影さんが一人の女性を特別扱いした、と思われてしまう」


「いや、でも……」


「もし、御影さんの力で早く薬が使えるのなら、それは彩乃さんに使ってあげて下さい。年齢が若い程、寿命が短くなる率が高いのですよね?」


「それは、そうだけど……」


「御影さん。私はまだ大丈夫です。ね、そうして下さい」


「わ、分かったよ……。じゃあ一般の方への投与を開始したら、すぐに打つからね」


「はい。その時はお願いします。さぁ、食べましょう!」


「うん……。でも、また豆腐……。そろそろお肉なんかも……。もう胃は大丈夫だと思うんだけど……」


「ダメです! お仕事が落ち着いて、ストレスが減ったと判断出来れば戻しますから、それまでは我慢して下さい」


「はい……。でも。その我慢の方がストレスのような……」


「ダメです」


 久しぶりに、みつきさんに怒られた。


 でも、怒られて、何故かとてもほっとした。

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