第23話 母

 白く輝くブラウスはそのままに、からし色のワイドパンツと白のスニーカー、いつもより柔らかそうに見えるのは、淡いオレンジ色のニット帽のせいだろうか、いや、お母さんと一緒にいるからか。


 ちくしょう。

 こんなに離れているのにもの凄く可愛いじゃないか……。


 どうしてこんなに可愛く見えてしまうんだ。


 だいたい、好みのタイプってどうやって決まるんだ?


 母親に似た人を好きになるという人もいれば、自分にない遺伝子を持つ人を好きになるという人もいる。


 よく考えれば、この二つの仮説は全く正反対の意味を持っていることになる。


 子供は生まれてくると母親のことを自動的に好きになるわけだが、異性として好きになってしまっては、近親婚の最たるもので、生物学的によろしくない。


 遺伝学から考えれば、自分にない優れた遺伝子を持っている人に惹かれるという説は正しいような気もするのだが、そうであればこのグローバル社会、皆、違う国の違う人種の人を好きになってしまう、ということになる。


 では、どうやって決まるのか……。

 などということは、現時点ではどうでもいい。


 それよりも、前回、みつきさんをご飯に誘い、やんわりと断られて以来、P-SEの研究以上に行き詰っている。


 もしかして断られたわけではなく、単にみんなで行きましょうよ! だったのかも、と思いたいのだが、もう一度誘う勇気は完全に萎れてしまっている。


 今のまま、いい関係でいるだけでは満足できない。


 もしかしたら、恋人同士になれるかもしれない、できればそうなりたい。


 でもそんなものは幻想で。


 どんなに頑張ったところで、仕事仲間以上にはなれないのかもしれない。


 下手をすると、よそよそしい感じの仕事仲間になってしまう可能性だってある。


 それだけは、絶対に嫌だ。



「治也、どうしたの? さっきより深刻な顔になっているじゃないの。そう言えば、少し痩せたんじゃない? ちゃんとご飯、食べているの?」


「いや大丈夫、大丈夫だから。会社の同僚を見掛けて、その人に声をかけるかどうかを考えていただけだから」


「えっ? どの方なの?」


「ほらあそこ、あの車いすを押している女性、オレンジ色のニット帽を被った」


「あら、凄く可愛い人じゃない! じゃあ、ちゃんとご挨拶しないといけないから連れてって」


「えっ? お母さんが?」


「だって、きっとご家族のどなたかがここに入所されているんでしょ。だからほら、いいから、車いすを押して!」


 言い出したら聞かない性格は昔からで、それは僕にも受け継がれてしまっているのかもしれない。


 仕方なく、みつきさん達が向かっていると思われる、テーブルセットを目指し、車いすを押し出した。


 先に着いたみつきさんは、車いすをテーブルに寄せてから、すぐ横のベンチに腰を下ろした。


「みつきさん、こんにちは」

 そう声をかけると、みつきさんが「はい?」と言いながら振り向いた。


「あっ、御影さん、こんにちは」と笑顔で答えてくれたのだが、その前に一瞬だけ困惑の表情が見て取れた。


 やはり声をかけない方がよかったのでは、と後悔した。


 でも、そんなことにはお構いなしに、すぐに母が割り込んできた。


「みつきさん、っておっしゃるの?」


「あっ、ご挨拶が遅れました。会社で御影さんのお手伝いをさせて頂いております朝比奈みつきです。よろしくお願いいたします」


「あら、ご丁寧に。はじめまして、御影の母、恵子です。きっとご迷惑ばかりお掛けしているんでしょ? 不出来な息子でごめんなさいね」


「いえいえ、とんでもありません。御影さんはとても素晴らしい方で、いつもご尊敬申し上げております」


「あらまぁ。お世辞でも嬉しいわ。ところで、お母様、ですよね?」


「あっ、はい……」


 みつきさんのお母さんは、心なしか表情が乏しい。


 母は身を乗り出して、「いつも息子がお世話になっているみたいで、申し訳ございません」と声をかけたのだが、みつきさんのお母さんから返事は返ってこなかった。


「すみません。母は認知症を患っておりまして、日によっては、このように何も反応してくれなくなってしまうのです」


 なんとなくわかる。

 自分の母親のこういう姿は、やはり人には見せたくない。


 だから以前、お母さんの話をした時、みつきさんの歯切れが悪かったのか。


 しかし、母は車いすの車輪を自分で回し、お母さんのところへ近付いて行った。


「朝比奈さん、ありがとうございます。こんなに綺麗で優しいお嬢さんに手伝って頂いて、うちの息子は幸せ者です。これからもどうぞよろしくお願いします」


 そう言って、母はお母さんの手を両手で強く握りしめた。


 一瞬、みつきさんのお母さんが微笑んでくれたように見えた。



 それからの、母はアクセル全開だった。


「治也は昔から一つのことを始めると熱中しすぎる癖があるから、たまには息抜きにデートでもしてやって下さいね。それから、ご飯もおざなりにするので、ちゃんと食べるよう見張ってて下さい。それと――」


「お母さん、もういいから。みつきさん困っているでしょ」


 みつきさんは、笑顔でいちいちうなずいてくれている。


「何言っての、ちゃんとお願いしておかないと」


「わかったから、ね。さぁ、もう部屋に戻ろう」


「もう――、じゃあ最後にもう一つだけ」


「何?」


「部屋に送ってもらったら、すぐに息子を帰らせますので、この後、息子にご飯を食べさせてやってもらえませんか? こんなに痩せてしまっているから」


 あっ、もしかして……。


 みつきさんへの感情を母に見透かされていたのか……。


 母というものはなんて恐ろしいんだ……。



「はい、たくさん食べて頂けるように致します!」

 みつきさんは、とてもおかしそうに笑いながら、そう答えてくれた。






「まずは白菜でしょ? あとはネギとシラタキ、焼き豆腐と、御影さんキノコ類はどうですか?」


「うちは、シイタケ、しめじ、エノキダケ、なんでもありでしたね。あっ、丁度季節だし、松茸を入れましょうよ! 僕が出しますから!」


「ダメですよ。そんなのもったいない。じゃあ食感が似ているエリンギにしておきましょう!」


「えーっ」


 女性との買い物が、いや好きな女性と街のスーパーで買い物をすることが、こんなに楽しいものとは思ってもみなかった。


 あれやこれや言いながら、食材を同じ買い物カゴに入れてゆく。



「じゃあ私の部屋で一緒にすき焼きを食べませんか?」


 数時間前までは、想像もできなかった夢の展開。


 お母さん、ありがとう! 世界中のどんな神様より、今は母に感謝の気持ちを伝えたい。


 僕が買い物カゴを乗せたカートを押して、みつきさんが食材を吟味し入れてゆく。


 これはもう、同棲気分? 新婚気分? で、否が応でもいろいろな期待がモヤモヤと膨らんでしまい、頭の中から飛びだしそうだ。


「あっ」

 と、小さな声をあげ、すき焼きにはあまり関係のなさそうな魚売り場の前で立ち止まったみつきさん。


「どうしたんですか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る