ピーリング
秋山実
研究
第1話 スキニーギニアピッグ
「どうしたんだ? おまえ」
手に取ったスキニーギニアピッグの背中の一部がボコッと盛り上がっている。
まるで豆大福の豆が皮膚の下に入っているようだ。
「なんだこれ? もしかして腫瘍とか?」
腫れているところを触ってみると、ゴツゴツした硬さが、毛のないモルモットの皮膚を通して伝わってくる。
周りの組織と引っ付いているのか動きも悪い。
「なんだか癌っぽいな、これ」
さて、どうしたものか。
正常ではないモルモットから取ったデータは、比較対象にならないため意味をなさない。
こいつはもう研究には不適格。用無しだ。
「処分だよなぁ、おまえ。まぁでも癌だったらどうせ死んじゃうし。そうじゃなかったとしても研究が終われば殺されちゃうか」
空っぽのゲージに移そうと、モルモットを両手で抱き上げた。
「おいおい、そんな目で見るなよ」
これからの自分の運命をわかるはずはないのだが、スキニーギニアピッグはそのピンク色の瞳でジッと僕を見つめている。
「もー、しかたがないなぁ、じゃあ天寿を全うするまで僕が飼ってやるよ。まぁ人間が実験用に繁殖させた生き物だから、天寿もへったくれもないだろうけど、せっかく生まれてきたんだしな。あぁ、ちょうどいいや、僕の話し相手になってくれよ、毎日一人で同じことをやっているから、独り言が増えちゃったんだよ」
15年前、父はすい臓癌になり、手術の甲斐もなく死んでしまった。
母は長年、インターフェロンやリバビリンの効かないC型肝炎を患っていて、肝臓癌になる確率がとても高い。
だから、僕が最高の抗癌剤を作ってやる! と意気込んで、必死に勉強をして薬学部に入った。
しかし人生はなかなか思い通りにはいかないものだ。
大手製薬メーカー、田神製薬に就職したまでは良かったが、抗癌剤の研究は実績を積んだエリートたちの領域で、三流薬学部卒の僕、御影治也には美容薬品の基礎研究が回ってきた。
善玉皮膚常在菌の表皮ブドウ球菌に、肌の新陳代謝を活発にするアミノ酸を作る遺伝子を組み込んで、それを肌に塗るという新薬のP-SE。
【化粧水を塗るだけで毎日ナチュラルピーリング】
【あなたのお肌はいつでも生まれたての赤ちゃんお肌】
【もちろんお肌に優しくて、表皮ブドウ球菌作用でとってもいい匂い】
【もう加齢臭なんて怖くない!】
そんなコピーが浮かぶ夢の新商品。
「期待の新薬に携わっているんだからすごいじゃない!」と言ってくれる人もいるが、自分の夢とは全くもってかけ離れてしまっている。
その上、実際にやっていることは、毎日スキニーギニアピッグの毛のないお肌に液体を塗って、そのお肌の変化を観察するという、極めて面白くない単純作業だ。
そりゃあ独り言が増えてしまうのも仕方ないよな。
気分転換にと、空いていたゲージを水洗いし、ペットシーツを底に敷き、その上に床材用の牧草を敷き詰めて、腫瘍のできたモルモットを入れてやった。
「おまえ、名前どうする? って、名前は自分で決めるもんじゃないよな。じゃあ僕が考えてやるよ、んー、そうだなぁ……」
本当はこんなことをしている場合じゃないのだが。
昨日、母の検査結果と病状説明を聞きに行くために有給を取ったので、仕事が溜まってしまっている。
もう夜中の一時だ。
でもずっと単純作業を続けてきたせいで、どうしても気分転換したい。
おなかも減った。
そんな心持で、ぼんやりと毛のないモルモットを眺めながら出てきた名前は『おこげ』だった。
「おい、おまえの名前はおこげな、背中が腫瘍のせいか焦げたみたいに黒くなっているから、おこげ。おっ、なかなか語呂がいいな。よーし、おこげ! もう変更は認めないからな」そう呼びかけると、おこげが「フイフイフイ」と声を出した。
「おー、おまえも気に入ったか。じゃあ今日からよろしくな、おこげ。しかしその背中のできもの良性腫瘍だったらいいんだけどなぁ。できれば長生きしてくれよ、おこげ」
「おはよう、おこげ。今日は朝礼の日だから、ちょっと待っていてくれよ」
今日は、週に一度の朝礼がある。
佐々木課長が点数稼ぎのために始めたもので、私は部下としっかりコミュニケーションをとっていますよ、という上司へのデモンストレーションだ。
時間の無駄以外の何ものでもないのだが、行かないわけにはいかない。
研究室を出て会議室のある二階に向かった。
睡眠不足のせいで開き切っていない瞼を擦りながら、階段を上り始めると「キャッ」という短い悲鳴が聞こえてきた。
顔を上げると、階段の踊り場で一人の女性が落としたものを拾おうと、しゃがみこんでいる。
良識のある女性は、しゃがみこんだ時に、スカートの中が見えないよう両脚を四十五度程ねじって座り込む。
しかし、僕はその四十五度の先、真正面にいて、しかも頭の位置が踊り場の床の高さに一致するという、奇跡的なポジションについてしまった。
スカートから覗く太ももと、その奥のぼんやりとしか見えない一帯は、男にしかわからない魅惑の世界で、重かった瞼は一瞬にして見開かれ、もしかしたらもう少し見えるのではないかと凝視してしまうのは、男の逆らえないさがだ。
そんな視線に気付いた彼女と目が合ってしまった僕は、あまりの恥かしさに動けなくなってしまった。
すると、その女性はゆっくりと脚の角度を反対側の四十五度にもっていき、僕と目を合わせたまま微笑みを作った。
このままではまずい。
僕は「大丈夫ですか?」と、さも今気付いたようなふりをして階段を駆け上がった。
「あっ、大丈夫です」と言いながら、ばらまかれてしまった書類を懸命に拾う彼女。
僕もしゃがみこんで書類をかき集めた。
「あっ、すみません」と謝る彼女のほうからは、甘く優しいそれでいて爽やかな香りが漂ってくる。
覗いていた言い訳もしくは、覗いてはいなかったと否定をしたかったのだが、いいアイデアが浮かばない。
頭の中で、さっき見たスカートの中の映像と、今も近くから漂ってくるいい香りと、込みあげてくる恥ずかしさとがこんがらがって、頭が全く機能しない。
僕は床の上の書類を必死にかき集めるのがやっとで、彼女に声を掛けることも、目を見ることさえできず、集めた書類の束を彼女の目の前の床に置くと、急いでいるふりをし一段飛ばしで階段を駆け上がった。
後ろから「ありがとうございました」と声をかけてくれた彼女。
僕は振り返ることすらできず、右手をあげてそれに応えるのが精一杯だった。
・御影治也(みかげはるや、27歳)
・スキニーギニアピッグ(毛のないモルモット)
・インターフェロン(ウィルス性肝炎や腎臓癌に効く薬、もともとは人の体内で作られるたんぱく質)
・リバビリン(抗ウィルス薬)
・善玉皮膚常在菌(正常な皮膚の上に存在し、人にとっていい働きをする細菌)
・表皮ブドウ球菌(代表的な善玉皮膚常在菌のひとつ)
・佐々木課長(ささき課長、41歳)
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