第28話 チョコレート
身体を覆っている無力感を少しでも拭い去りたくて、バシャバシャと何度も顔を洗った。
しかし、さすがにすっぴんで皆の前に出ていくわけにはいかないので、軽くメイクをし直すことにした。
この棟の研究室は最新の設備が揃えられているのだが、その分、トイレ等は経費削減の対象になっていて、男性用と女性用が天井近くで繋がっていている為、話している声が筒抜けになっている。
隣から部下二人がトイレでダラダラと話しているのが聞こえてきた。
木村と加藤の声だ。
「もういいかげんにしてくれよなぁ、あのお嬢様。可愛げがないにも程がある」
「ホントだよなぁ。いつも妙にイライラしちゃって。実力もないのに主席研究員なんかになるからだよ」
「そうそう。この研究にしたって、御影室長のすごい発想力とマシュー班長がOKOGEを見つけたおかげで成り立っているんだ。お嬢様はそこに一緒にいたってだけだろ。やっぱいいよなぁ、七光りのある奴は」
わかっていた。
そう思われていることも、実際そうであることも。
だからこそ、それをくつがえそうと頑張ってきた。
人一倍努力をして。
でも、結果はついてきてくれない。
やっぱり父親のいる会社になんか入らなければよかった。
もう辞めてしまおうか……。
やめて、お見合いでもして。
結婚でも、しようかな……。
「ちょっと待って!」
まだ続いている部下たちの言葉をこれ以上聞きたくなくて、自分の頭の中の世界に逃げ込もうとした時、聞きなれた柔らかな声に引き戻された。
「木村君、加藤君、ちょっと待ってて」
声の後に、ゴォッザァーゴボゴボゴボと水の流れる音がして、カチャカチャと小さな金属音、そしてカチャン、バタン。
木村と加藤が目を丸くし固まっているような気がした。
「ちょっとだけ、僕の独り言を聞いてくれるかな」
「はっ、はい」
「はい」
「親の七光りって、よく揶揄されることが多いけど、僕は違うと思うんだ。木村君も加藤君も薬学部卒だよね? 小さな頃から塾とかに行ってた?」
おいおいリーダー、のっけから独り言じゃなくなってるよ、質問しちゃってるし。
「はっ、はい。行っていました」
「だよね。僕も行ってたんだけど、塾代って結構高いんだよね。それはやっぱり親が出してくれているもので。だいたいからして、勉強するための頭も、木村君のカッコイイその顔も、加藤君のその背の高さも、やっぱり親からもらったもので。みんなその恩恵の中で自分の努力を積み重ねていると思うんだよ。親の七光りと言われる人は、その恩恵が人より少し多いのかもしれないけど、その分、他の人にはわからない苦労もしているかもしれない。頑張って成果を出しても正当に評価されないとか、親の業績が凄すぎて自分の成したことを自分で褒めることができないとかね。それにね伏見さんは凄いんだよ。僕たち三人で研究していた頃の手技はほとんど伏見さんがやってくれていた。彼女はとっても手が器用なんだ。でも口の利き方は不器用で、君たちも知っているように、よく憎まれ口をたたく。でも僕たちにとってそれは笑いの源で、地味で疲れる研究を続けてこられた要因の一つなんだ。その上伏見さんは頭が凄くいいんだ。知識も豊富で回転がもの凄く速い。僕が言うことを何でも即座に理解し応えてくれる。それによって僕の考えが整理され一緒に前に進んでいけるんだ。そして一番凄いのは、負けん気が強くて絶対にあきらめない、弱音をはかないところ。それが僕やマシューにも伝染して。はっきり言って伏見さんなしでは僕たちの研究はここまで来れなかったし、ここから進むこともきっとできない。だからこれからも……、不器用な彼女を支えてやって欲しいんだ」
最後まで一言も発さず聞いていた木村と加藤が、小さな声で、でも迷いのない「はい」を言って出て行った。
「どうしたのよ、二人とも。そんな暗い顔して」
「また、マウスに癌が発生し始めたんだ」
「OKOGEに癌抑制遺伝子を組み込ませたやつ? どのタイプに?」
「RBプラスp16タイプにはリンパ腫が、APCプラスp21には肉腫ができてしまったんだ」
「そうなんだ……。でも他にもまだいろんな組み合わせを試しているんでしょ?」
「それはそうなんだけど、p53の次に強い癌抑制作用を持つRBにp16を足したものにもできてしまったとなると、もしかしたら全部ダメかもしれない……」
「んー、でもまだ、そうと決まったわけじゃないんでしょ。ほらほら、こんな美女が二人も目の前に居るんだからさ。しかもこんなに寒い中、とーってもおいしいチョコを買ってきてあげたんだよぉ。これを食べて脳にグルコースを補給したら、またいい考えが浮かぶかもしれないって!」
うつむいた僕たちの顔を、そう言って覗き込む玲奈の顔。
強引に、自分の顔を笑顔に変えさせられた。
そうだ、落ち込んでいても何も前には進まない。
結果を受け入れ、そこから次を考えなければ。
「じゃあ、コーヒーを入れてきますね。玲奈ちゃんは紅茶でいいよね?」とみつきさんは給湯室に向かって行った。
「はーい、というか私も行きまーす」と玲奈も追いかけて行った。
「なぁマシュー、僕たちはいい仲間を持ったよなぁ」
「ホンマニ、サイコーヤ」
そう言いながらも、マシューの視線は再びパソコンの画面に向かっている。
ウィルスの改造がそう簡単に上手くいくとは思ってはいなかったのだが、手間と時間がかかっているだけに、ほんの少しでもいいから希望の光を見出したいところだ。
「マシュー、今回の結果をもう一度、表にして書き出してくれないか?」
「OK アニキ」
マシューがキーボードを叩き、表を作っているところへ、みつきさん達が帰ってきた。
「あー、また下を向いてる。もぅ、これでも食べなさい」
そう言いながら、玲奈はピンク色をしたチョコレートの粒をマシューの口の中に放り込んだ。
「Oh. アマクテ、ウマイナー、How come? It's flaming hot!」
「玲奈ちゃん、これって……」
みつきさんが、チョコレートが入っていたビンを持ち上げラベルを見ている。
「へっへー。コショウボクって辛い実をチョコでコーティングしてあるんだ。ちょっと刺激的でしょ?」
「Oh. タシカニ。オカゲデ、メガサメタヨー」
変な顔をするマシューを見て、皆が笑い出した。
最高の気分転換だ。
みつきさんがコーヒーを配り、色々なチョコレート菓子を皆で食べた。
マシューは先程の粒チョコレートが妙に気に入ったようで「Sweet and spicy ヤー」と言いながら、一粒ずつかじっている。
「しょっぱい物や辛い物、すっぱい物をチョコで包み込んでいるお菓子って結構多いんだなぁ」
「そういえば、そうですねぇ。最初口当たりがよくって、噛むと味が大きく変化して。次々食べちゃいます」
「ホントに。あー、なんだか元気が出てきたかも。グルコース効果かな?」
「あっ、グルコースと言えば、おこげのPET検査はどうだったの?」
「えっ? どうしてグルコースと言えばでPET検査が出てくるんだ?」
「んーと。皆さんご存知の通り、癌細胞は異常に増殖を繰り返すわけだよね? で、それには相当なエネルギーが必要だから癌細胞は大量のグルコースを取り込む。その習性を利用して、グルコースに類似した物質に放射性同位元素をつけた薬剤を体内に入れると、それが癌細胞に取り込まれるから――」
何故かそこで玲奈が固まった。
でも、PET検査の理論はよくわかった。
「へー、知らなかった……」
「それで? おこげちゃんは?」
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