第49話 成果

 第三相は、MRが担当の医師(大学の医局)に依頼をし、医師が条件に合う患者さんを選択、そしてその患者さんに十分な説明を行い、同意を得られれば試験投薬を行って、その結果とデータをMRに提出するという形を取る。


 このため、OKOGE Type SquadとPAA with sugarの使用に僕たちが直接タッチする機会はほとんどなくなった。


 今まで積み重ねてきた研究が自分たちの手から少し遠くに離れてしまったような、育ててきた子供が親元から離れていってしまったような、そんな気持ちになった。


 それでもデータは次々と入ってきて、僕たちは、薬の使用条件と最も有効で安全性の高い投与方法を確定するための作業に追われた。


 また、それと並行して論文の作成にも本格的に取り掛かった。


「もしもNatureやCellに掲載されれば、それはもの凄い宣伝効果が生まれる。何千万円も使ってCMや広告を出さなくても、ただで全世界にニュースとして流してくれるんだ。皆、全力で取り組みたまえ」


 佐々木課長が興奮気味に、そう指示を出した。


 それは上からの意向で、可能であれば製品の発売前に、と付け加えられていた。


 NatureやCellに自分の論文が載るということは、それはもう研究者にとって夢のような出来事なのに、それに期限を切られても……、と正直思ったのだが、期待されていること自体は嬉しくて、玲奈もマシューも寝食を忘れ没頭している。






「そう……。治也がんばったのね。偉いねぇ」


「うん。でも、僕たちのせいで亡くなってしまった人が……」


「それは、治也のせいじゃないじゃない。だって、このお薬がなければ、どちらにせよ亡くなられてしまう人だからその臨床試験? を受けたいと希望されたわけでしょ? 私と同じで」


「うん……」


「だったら、それが自然の流れだったのよ。それよりも、もう既に何百人の方たちの命をあなたは助けたのよ。私もその一人。そんなことをできる人は、そんなに沢山の人の命を助けることができる人なんて、世界中に何人いるか。それを誇りに思いなさい」


 僕たちのところには、試験投与後のデータが上がってくるだけで、癌をやっつけることができた! という喜びはあっても、人の命を助けたという実感は全くなかった。だから、この母の言葉はとても嬉しかった。


「ありがとう、治也。あなたのおかげで、今、私はここにいる。ここにいて、自分の子供が凄いことをやり遂げた話を聞くことができた。まぁ、そんなあなたは私が生んであげたんだけどね」


 くすっと笑いながら、そんなことをいう母は、まるで少女のように見える。

 まあ少女は言い過ぎとしても、肌の張りも艶も、以前より明らかによくなって、とても若々しく見える。

 癌を取り除くと、こんなにも変わるものなのかと、驚かされる。


「ありがとう、お母さん」


「えっ? どうして治也がありがとうって言うの? あっ、私があなたを生んであげたから?」


「うん……、それもあるけど。この薬のことで、ありがとう、って人に言われたのは初めてだから、凄く嬉しくて」


 人の命を助けることができて、その人から「ありがとう」と言ってもらえることは、こんなにも嬉しいものなのだ。


 この気持ちを知ると、医師のことをとても羨ましく思ってしまう。

 日々、患者さんから、ありがとう、と感謝されるのだから。


 きっと、この薬で助かった人たちも、担当の先生にいっぱい、ありがとう、を言ったはずだ。


 その分、悪い結果だった時の、心労は計り知れないものがあるのかもしれないが。


「そうね。治也の仕事は患者さんには会わないものね。でも、またこれから、もっと沢山の人たちが、あなたの薬のおかげで救われて、その人たちの、ありがとう、の気持ちは直接聞くことはできなくても、きっと治也に届くはずよ。だからこれからも誇りをもってがんばりなさい。あっ、でも、ちゃんと食べてちゃんと寝ないとだめよ」


「うん、わかった。ありがとう」


 薬を作らなければ、こんな愚痴を母に聞いてもらうこともできなかった。

 ニコニコしながら話を聞いてくれている目の前の母は、もうこの世にはいないのだから。


 それだけで十分、

 この薬を作ってよかった、心からそう思えた。






 第三相の臨床試験も終盤に入った頃、玲奈からメッセージが送られてきた。


【論文が書きあがったから、お祝いして!】と。


【OK! お疲れ様! じゃあみんなに連絡するよ。どこに行く?】


 そう、送り返すと、すぐにまたメッセージが返ってきた。


【二人で話したいこともあるし、土曜日午後七時にここに来て!】と、お店のデータが添付されていた。




 お店に入るとすぐに、とても大きないけすがあって、中で魚やイカが泳いでいる。


「伏見様のお連れ様ですね?」と聞かれ、「はい」と答えると、奥の個室に案内された。

 ふすまを開けるなり「もう、リーダー遅ーい!」と咎められた。


 時間に遅れたわけではないのだけれど。


「今、ちょうど七時だよね?」


「うん。でも私、三十分前に来ちゃったから、もう二人で飲むのが楽しみで、待ちきれなくて。だからリーダー遅ーい!」


「そ、そうなんだ、ごめんごめん。待たせてごめんね」


 何故謝っているのかよくわからないのだが、全く悪い気分はしなかった。


「さあさあ、座って! リーダーは何にする? ビール? 日本酒?」


「えっと……、まずは――」


「日本酒にする? 日本酒! このお店、いいお酒が置いてあるんだよ。私のお勧めのにする?」


「う、うん……」


 一見強引とも思える玲奈の仕切りは、僕にとっては、何故か心地いいものだ。


 一緒に研究をしているときも、先へ先へと進もうとする彼女の性格が、僕やマシューを引っ張っていってくれて、一緒に先を考えることによって、新しいものが見えてくるのだ。


「料理はねぇ、三十分間、考えに考えて、決めてあるから! リーダーは嫌いなものとかあったっけ?」


「うん。生や半生の玉ねぎがダメ」


「それなら、大丈夫、出てこないよ。じゃあ、料理を始めてくださーい! あと、これを冷酒で二合お願いします」


 二人のやり取りを微笑みながら見ていた店員さんがオーダーを受けて下がっていった。


 すると玲奈はバッグから封筒を取り出し、恐る恐るを演技するかのように頭を下げて、僕の前に差し出した。


「Natureへの投稿論文です。最終チェックをお願いします」


「はい。もう何の問題もないと思いますが、持ち帰ってじっくりと読み返してみます。お疲れ様でした」


 原案を玲奈が作成し、二人で話し合い構成し直して、更に書き直し、また改良をして。


 何度も何度も、より良いものを、より正確なものをと作り上げた論文だ。


 心血を注いで書き上げた、まるで二人で育て上げた子供のように思える論文だ。


 玲奈が女の子でなかったら、抱き合って喜びを分かち合いたい気分だが、右手を前に出し握手をした。


 一緒に頑張ってきた者だけが分かるしみじみとした感情がその手から伝わってきた。


 ふと、玲奈はその手を放し、もう一つ封筒を差し出した。






・MR(medical representative の略、医薬情報担当者。製薬メーカーの営業業務等を行う)

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