第40話 PAA with sugar

 その後も、母の容態が悪化することはなく、OKOGE Type Squad投与後、四日目を迎えた。


 PAA with sugarの投与は、多かれ少なかれ母に侵襲を与えることが予測される。


 週末、土日の二日間、母の横につけるよう、金曜日の夜に一回目のPAA with sugar投与を行うスケジュールを組んでいた。


 母の主治医から処方されていたいくつかの薬を持参し、「今週の土日は何もすることがないから、お母さんと一緒にいるよ。たまには家族三人でどこかに行ってきたら」と姉には言っておいた。


 その分、金曜日は姉が朝から来ていたので、前回と同じよう、姉が帰った後、消灯の十時を少し過ぎてから、みつきさんを部屋に呼び入れた。


 両手に大きな紙袋を提げている。


 今回みつきさんが、知り合いからいくつかの医療機器を借りてきてくれたのだ。


 それはどれもが新品で、よくこんなものをと問いかけると、倉庫から拝借してきたとのことで、すぐに使えるようセットをしたり組み立てたりと、可能な限りの準備をして、PAA with sugarの投与に備えた。



 まず、みつきさんは母の右腕の袖をめくり上げ、血圧を測った。


 少し高めだが正常範囲とのこと。


 脈拍も心電図も異常なし。


 次に母の左側に回り込み、左腕の袖をめくり上げ、駆血帯で母の上腕部を縛った。


 前腕部に手を当てて、針を刺す血管をしばらく探した後、みつきさんが僕に向かってうなずいた。


 僕は、それにうなずき返し、PAA with sugarの入った大きな注射器を取り出した。


 今日は、翼状針と注射器の間に延長チューブを取り付けてある。


「ではお母様、始めますね」


 少し不安そうにうなずく母。

 僕たちの緊張感を母も感じてしまっているのかもしれない。


 みつきさんは、再び血管の場所を確認し酒精綿で消毒。


「じゃあ、お母様、注射しますね」


 僕が手渡した翼状針を持って針先のキャップを外し、「じゃあ、チクっとします」と言ってから、母の前腕部に針を刺した。


 ん?


 チューブの中に血液が逆流してこない。


 みつきさんは、針先をもう少し奥に進めた。


 だが、はやり逆流してこない。


 針を少しだけ引き戻し、針を刺したまま、皮膚の下で針の角度を変え再び深く刺す。


 母が少し顔を歪める。


 何度か角度と深さを変えてみるが、やはり血液は逆流してこない。


 母は腕に力を入れて、動かないよう必死に耐えている。


 額に汗が滲み出し、みつきさんの顔が見たことのない焦った表情になってゆく。


「みつきさん……」


「すみません……。お母様もう一度やり直させて下さい」


 そう言って、みつきさんは、駆血帯を緩めてから針を抜いた。


「みつきさん! 針先と血液に気を付けて!」


「はい……」


 PAA with sugarは体内に少々入ったところで、大きな問題にはならないのだが、母の体内には既にウィルスが入っている。


 一度刺した針や血液が、みつきさんの体内に入ると、極少量でも感染する危険性が極めて高い。


 みつきさんは慎重に、針の先端にキャプを取り付け、刺した部位に酒精綿を当て、テープでしっかりと固定した。


「ごめんなさい。もう少し腕の先の方で、やり直させて下さい」


 僕が額の汗をティッシュで拭くと、みつきさんは無理やりの笑顔を作ってから、前腕部に駆血帯を巻きなおした。


 手首に近い所で血管を探る。


 十二分に確認し、新しい酒精綿で消毒をした。


「では、もう一度チクっとします」

 そう言ってキャップを外し、素早く針を突き刺した。


 みつきさんが大きく息を吐き、ゆっくりと瞬きをする。


 チューブ内に赤い血液の流れが見て取れた。


「入りました。何度もすみませんでした」


 安堵の表情を浮かべ、みつきさんは駆血帯を外してから、テープで厳重に翼状針を母の皮膚に固定した。


 更に、母の手首が動かないようシーネという添え木を当てて、包帯でしっかりと固定した。


 みつきさんが、僕が持っていた注射器を手に取って、少しだけ押し子を引っ張る。


 チューブの中に、母の血液が逆流した。


「大丈夫です。ちゃんと入ってくれています」


 そう言って、みつきさんは、その注射器をシリンジポンプにセットした。


 このシリンジポンプは電動で、設定したスピードを保ち薬剤を注入していってくれる。

 僕はこれを四時間で全量が入るようセットした。


 母の左腕の袖を元に戻し、シリンジポンプをベッドのマットレス上に置いた。

 これなら夜の見回り前に上布団をかぶせれば、注射をしていることはわからなくなる。


 ようやく一息ついた。


 だが、これはまだ準備ができたというだけで、ここからが本番だ。


 僕は、みつきさんとうなずき合い、シリンジポンプのスイッチを入れた。


 逆流していた血液が、少しずつ流されていくことで、PAA with sugarが少しずつ母の体内に入っていっていることが分かった。


 脈拍は少し上がっているが、これは緊張と針を刺した時の痛みのせいだろう。

 心電図に異常はない。


 みつきさんは母の右腕で血圧を測っている。


「血圧に異常はありません」

 僕に向かってそう言うと、続けて「お母様、痛いとか気持ち悪いとか、何か異常はないですか?」と母にたずねた。


 母は、うなずいたあとに「大丈夫です」としっかりと答えた。



 十分が経過。


 脈拍、血圧、心電図共に変わりがない。


 おそらくこれでアナフェラキシーなどの急性反応の心配はなさそうだ。



 少しずつ少しずつ時間が流れ、少しずつ少しずつPAA with sugarが入っていく。


 血液に流されて、静脈、心臓、肺動脈、肺、肺静脈、心臓、動脈、そして全身へ。


 時間の流れは極端に遅く、どれくらい経っただろうかと思い、時計を見るといつも二分程しか経っていない。


 だが、時間を潰すために会話をするような気分にもなれず、時々母親に「大丈夫?」とたずねるだけで、時間はほんの少しずつしか進んでいってくれない。


 みつきさんも、定期的に血圧を測り、異常がないことを確認すると、僕に目で合図を送るが、それ以外はじっと母親の顔を見続けている。


 それでも時間はなんとか過ぎてはいってくれた。


 シリンジポンプのスイッチを入れたのが十時三十分。


 一時間が経過し、十一時三十分となった。


 十二時の見回りの前に、余裕を持ってみつきさんをお母さんの部屋に返したい。


「みつきさん、そろそろ」


 そう言って、入り口に向かい、廊下に誰もいないことを確認し手招きをした。


 みつきさんは、もう一度だけと血圧を測り、異常がないことを確認したあと「じゃあ、何かあったらすぐに連絡下さいね」と言い残してから、薄暗い廊下に消えて行った。


 全体の見回りが終わった後、十二時三十分頃に、みつきさんはもう一度戻ってきてくれる。


 だが、それまでの一時間がとても不安だ。


 何か問題が起こった時に、僕が一人で対応できることはほとんどない。


 今は、ただひたすら、無事に時間が過ぎていってくれることを祈るだけだ。






・アナフェラキシー(急性の重篤なI型アレルギー反応の一つ。僅かなアレルゲン物質が生死に関わるアナフィラキシーショックを引き起こすことがある)

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