第41話 母の存在

 祈りが届いたのか。


 誰に届いているのかもわからないが、何の問題も起こらず三十分程が過ぎ、見回りのスタッフの女性が部屋に入ってきた。

 小さな声で「お変わりないですか?」と言いながら。


 この施設では、誰の部屋に誰が泊っているかをちゃんと把握していて。

 普段であれば、利用者を起こさないようそっと入ってくるのだが、今日は僕がいることがわかっていて、そう声をかけたのだろう。


「はい、落ち着いています」

 僕は立ち上がって、そう答えた。


 彼女はベッドに近づき母の顔を覗き込み「おやすみになられていますね。では、お邪魔しました」と微笑んでから部屋を出て行った。


 よかった、針が刺さった腕にもにもシリンジポンプにも気付くことはかなかった。


 とりあえず、一安心だ。


 気付けば十二時を十分程過ぎていた。


 母の顔の近くに座り直し、一息ついた。


 目の前で、眠ったり起きたりを繰り返す母。


 目を覚ますとすぐに辺りを見渡して、僕の視線を見つけると安心するのか、少し微笑んでから再び目を閉じる。


 今までは、ずっと逆だった。


 小さな頃は、いつも母に触れていた。


 抱っこ、おんぶ、手をつなぐ。


 母が仕事で手が離せない時は、母の服を握りしめ、ずっと付いて回った。


 一人で遊べるようになってからも、常に母の居場所を確認しながらで、いつも自分の方を見ていて欲しくて、何かをするたびに「見て! お母さん! 見て! 見て!」と叫び、少しでも姿が見えなくなると「お母さん! どこ? お母さん!」と探し回っていた。


 小学生になってからも、勉強や運動を頑張る最大の理由は母に褒めてもらいたいからで。

「すごいでしょ? すごいでしょ?」

「ホントすごいわねぇ。よく頑張ったわねぇ」と。


 思春期に入ると、マザコンと言われるのが嫌で、何でも自分一人で突っ走った。


 だが、それができたのは、それを見守っていてくれている母がいて、いつでも戻れる場所があったからだ。


 成人してからは、一人の大人として、対等の立場で会話をしていたつもりだが、母の言葉の端々に、中学生くらいの末息子を心配する母親の思いが垣間見られ、小恥ずかしくも、なんだかくすぐったく、柔らかな気持ちになった。


 生まれる前は、もちろん母の中に居て。


 生まれてからも、ずっと母に抱きしめられていた。


 抱きしめられない程、大きくなってしまってからも、常に母の愛情に包まれてきた。


 その母が死んでしまったら。


 さっきまで微笑んでいた母が急にいなくなってしまったら。


 どこを探しても母が見つからない世界は、想像すること自体が恐ろしくて。


 考えることを拒み続けてきた。


 怖い。

 すごく怖い。


 お願いだから、治って欲しい。

 治って下さい。


 そう願っている時に、母が苦悶の表情になって。


 目を見開いた。


「どうしたの、お母さん! どこか痛いの?」


「胸が……」


「胸がどうしたの?」


「吐きそう……」


 やはり、PAA with sugarが……。


「お母さん、ちょっと我慢して、これを飲んで」


 僕は、急いで主治医から処方されていた制吐剤を取り出して、母の口にそれを入れ、吸い飲みで水を飲ませた。


 お願いだ、効いてくれ……。


 制吐剤が効き始めるのには少なくとも三十分くらいはかかってしまう。


 それまでに、母の症状が悪化しなければいいのだが……。


「お母さん……」


 母は、顔を歪ませ、額にうっすらと汗をかき必死に耐えている。


 額を冷やせば少しは楽になるかも。


 急いで冷蔵庫から氷を出して袋に入れ、そこに水を足してから濡れタオルで包んだ。


 即席の氷嚢を母の額に当てる。


「ありがとう」と言って、目を閉じる母。


 時々、息を吸ったところで胸の動きを止め、ゆっくりとはいている。


 やはりまだ、吐きそうになるのを我慢しているようだ。


 脳幹部の嘔吐中枢の興奮を抑えればいいのだから、頭に行く血管が通る首を冷やした方が効果的か……。


 氷嚢をもう一つ作り、祈るような気持ちで左右の首筋にそれを当ててみた。


 その真ん中にある喉元が、時々大きく動く。


 気持ち悪さを我慢するために、唾を飲み込んでいるようだ。


 しばらくすると、母が右手を胸にやり、強く撫でるような動きをした。


「どうしたの? 吐きそうなの?」


 母は首を小さく横に振り「痛い……」と顔をしかめる。


 きっとPAAが組織を攻撃しだしたのだ。


 どうしよう、どうしたらいいんだ。


 癌の痛みが強くなった時のために処方されたモルヒネの自己注射薬が手元にある。


 これはきっと今の痛みには効くはずだ。

 でも、これを注射すれば、モルヒネの副作用で更に吐き気が酷くなる可能性が高い。


 だめだ、判断できない。


 僕は、みつきさんに相談をすることにした。


 スマートフォンの画面を心電図からメッセージのアプリに変更し、急いで文字を打つ。


 その最中に、「ゴボッ」という低く濁った、とても嫌な音が耳に入った。


 振り向くと、母が悶え苦しみながら、左手でマスクを外そうとしている。


 口からは吐瀉物があふれ出していて、右手でそれを掻き出そうと、もがいている。

 この世の地獄に入れられたような顔をして。


「お母さん!」


 急いでマスクを外し、吐瀉物をタオルで拭き取ったが、母は息を吸い込むことができない。


 僕は慌てて、みつきさんに電話をかけた。


 コールが鳴る間もなく、みつきさんが出る。


「母が吐いてしまって、息ができないんだ」


「すぐに、体を横に向けて、背中を叩いて下さい」


 スマートフォンを一旦置き、急いで母を左側下で横向けにし、背中を叩いた。


「お母さん! 息をしてよ! お母さん!」


 何度も何度も叩いたが、母の息は戻らない。


 気付くと、先程まで全身をこわばらせていた母から力が抜けてしまっている。


 死んでしまった、母が……。


 目の前にいる母が……。


 ここにまだ身体がある母が……。


 僕がもう一度、スマートフォンを手に取り「死んでしまったかもしれない。どうしたらいい? どうしたらいいんだ?」と叫んだ時には、みつきさんが息を切らし、部屋に入ってきていた。


 みつきさんはすぐに、借りてきていた吸引器のスイッチを入れ、チューブを母の口の中に差し込んで、吐瀉物を吸い出した。


 喉の奥までチューブを入れて、入念に吸い出した。


 そして間髪入れず、母を上向きにし、鼻をつまみ、顎を上げてから母の吐瀉物で汚れた口を躊躇なく自分の口で覆い、人工呼吸をし始めた。


 強く息を送り込む。


 反応はない。


 もう一度送り込む。


 やはり反応はない。



 みつきさんは、右手を母の首筋に当て脈を取り。

 大きく息を吸い込んだ。

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