第54話 ラーメン

 買ってきた歯ブラシを取り出して、歯磨き粉はみつきさんのを勝手に借りて、これって間接キッスだよな? とまたまたバカな事を考えながら歯を磨いた。


 これからラーメンを食べさせてもらうのに、歯を磨くのも変なわけだけど、いつみつきさんとキスをするシーンがやってくるかはわからない。

 男として、そこは準備しておかないとな。


 脱いだ下着を、コンビニのレジ袋に入れて持ち、リビングに向かった。


 僕の大好きな白いソファに腰をおろす。


 ああ、やっぱり包み込まれる。

 そう思っていると、目の前に氷がきちきちに入ったグラスが置かれた。


「たっぷり水分補給してくださいね」とミネラルウォーターを注いでくれたみつきさん、その足で台所に戻るのかと思いきや、ふと立ち止まり、「これ、洗い物ですよね?」とレジ袋を指さした。


「はい。あっ、いや、持って帰って自分で洗うので」

 そう答えたのだが、すぐさま奪い取られ、みつきさんは、その袋を持ったまま脱衣場に向かい洗濯機を回し始めた。


 はぁ、どうかあの下着にシミなんかついていませんように……。


 なんてことを心配している間に、みつきさんはもう台所に戻ってきていて、数分後には僕の前には大きなどんぶり、横には小さなお椀を抱えたみつきさんがやってきた。


 この縮れ麺と独特の香りは、定番の、あの塩ラーメンなのだが、すりゴマが更に香りをひき立てていて、半分ほどが溶けだしているバターがスープの表面を金色に輝かせている。


 四角く切られ半透明になるまで煮込まれたキャベツが大量に入っていて、その横には白身だけが固まった卵がのっかっている。


「いただきます」


 お礼を言うのも忘れて食べ出した。


「うまい……」


 もともとおいしい塩ラーメンにバターのコクと香り、キャベツの優しい甘みが加わって、食べる手を止められなくなった。


 気付くと、みつきさんがこちらの方を向いていて、「どうしたんですか? 食べないんですか?」とたずねると、「自分が作ったものをおいしそうに食べてもらえると、本当に嬉しいんです。まぁ今日はインスタントラーメンなわけなのですが、それでも」そう言って、みつきさんがずっと微笑んでいる。


「そんなに見られていると食べにくいので」そう言って、その笑顔に見惚れてしまったことをごまかした。


 麺を半分ほど食べた後、箸で卵を切って口の中へ。

 そこへ、スープとともにキャベツをかきこんで咀嚼する。


 はぁ、うまい……。


 切られた卵から黄身がスープに溶け出して、それを麺に絡めてすするとカルボナーラのような濃厚なうま味に変わり、最後まで一気に食べつくしてしまった。


「ふう……。ごちそうさまでした」


 最高の満足感。


 みつきさんは、そんな僕を見てクスっと笑い、「お粗末様でした」と言って食器を下げ、台所に向かった。


 とても長い一日だった。


 朝から、記者会見の準備に追われ、必死に原稿を覚え、すっかり忘れて、沢山の質問をされて、一つ一つ答えて、祝福されて、みんなで喜び合って。


 帰って寝ようと思ったら自分の部屋には帰れなくて、そしてここにやってきた。


「ゴォー」という洗濯機の音、今は脱水だな。


 その中に、「ジャー」「ゴシゴシ」「キュッキュ」「シャー」「カチャン」「キュッ」「パタン」と台所の音が混じってきて、そのうちに洗濯機が「ピー」と止まり、「トン、トン、トン」と廊下を駆けていく足音が聞こえた。


 何故だろう、家事の音を聞くと安心できる。

 そうか、この音は、昔、母が出していた音なんだ。

 母がそばにいてくれる音なんだ。


 そんな音を聞きながら、もしかすると今日という日は、人生で最高の一日だったのかもしれない、そう思った。




 左肩に柔らかな重みを感じて目が覚めた。


 そのままソファで、寝てしまったんだ……。


 あぁ……、

 みつきさんが僕にもたれかかり、寄り添うように眠っている。


 みつきさんが掛けてくれただろう毛布に二人して包まって。


 スースーと小さな寝息をたてて眠るみつきさん。


 笑った顔、おいしい顔は最高だけど、この安心したように眠るみつきさんの顔も最高に可愛らしい。


 起こしちゃダメだ、そう思うより先にキスしてしまった。


 これはズルい、完全に反則だ。


 そう思っても、もう止めることなどできない。


 前にキスをしたときは、唇が触れたかどうかもわからないくらいで、胸を押され突き放されてしまった。


 それがもう、僕の唇には、この世のものとは思えないほどの柔らかな感触が確かにあって。


 もう少し強く、押し付けたくなって。


 その柔らかくてあたたかいものを自分の唇で挟みたくなって。


 食べてしまいたくなって。


 頭の中には、それ以外のものが何もなくなってしまった。



 夢中でキスを続けてしまい、


 みつきさんの両腕が、僕の肩と背中にまわり


 抱きしめられた。


 とろける、というのはこういうことを言うんだ。


 あたたかく柔らかだった唇が、熱した蜂蜜のアイスクリームのように、ありえないくらい甘く熱いものに変わってゆき。


 原子と原子が出合い、化学結合を引き起こしてしまったように。

 ひっつきたい、一つになりたい、その思いがどんどん強くなっていく。


 唇を押し付け合って、お互いの体を抱きしめ合って、首筋も肩も胸も、全てを自分の口に、体の中に入れたくなって。


 みつきさんの吐息と体の動きで、お互いの気持ちが同じであることに安堵して。


 邪魔となったショートパンツに手をかけた瞬間、みつきさんの体が突然硬くなった。


 顔を上げると、みつきさんは唇を噛みしめていて、それでもゆっくりと小さくうなずいた。


 僕も小さくうなずき返し、みつきさんのショートパンツを脱がせ、自分のハーフパンツに手をかけた。


 その時だ。


 みつきさんの体から細かな振動が伝わってきた。

 見ると目をつぶり必死に頑張っていたみつきさんのまぶたから涙が流れ出していた。


 僕は思わず、そのみつきさんの顔を胸の中に抱きしめた。


「ごめん」

「ごめんなさい」


 二人の言葉が重なり合い、みつきさんの嗚咽は止まらなくなった。


「大丈夫だから。もう頑張らなくていいから。みつきさんは今のままのみつきさんでいいから」



 朝まで二人して抱きしめ合った。



 そして、その日の夜も僕の足はみつきさんの部屋に向かう。


 僕の帰りを待ってくれている人の部屋へ。

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