第53話 おかえりなさい

 疲れた、とても疲れた。

 とてつもなく疲れた。


 自分たちがやってきた研究が、予想以上と言っていい程の結果を出した。


 すでに多くの人の命を救っていて、世界的に権威ある科学雑誌にその論文が掲載されて、とても沢山の人達から祝福を受けた。


 その喜びが、おなかの中からじわじわと上がってきて、「YES! YES!」と拳をあげて叫んでしまいそうだ。


 日本人なのに、何故YESなのかは自分でもわからないのだが、「やったぞ!」でもなく「俺はやったんだ!」でもなく、「うおーっ!」でもない。


 言葉では表現できない喜びが、じわじわした喜びが、体の中からあふれてくる。


 でも、沢山の人の前で話すのはやっぱり苦手で。


 昔から、何かの長になったことなどはないし、今のチームを率いるようになってからも、四人以上になると途端に体中から汗が噴き出てきて、それをSquadのみんなが補ってくれていた。


 だが今日は、どうしても僕自身が話さなくてはいけなくて、それもマイクとカメラを構えた驚くほどの人の前で。


 そのせいか、達成感を伴う清々しい疲れだけではなく、どんよりした疲れがそこに混じっている。


 そんな疲れを感じながら、時々叫びそうになりながら、トボトボと家路を歩いていると、何やら前方が騒がしいことに気が付いた。


 そっと近付いていくと、僕の住む賃貸マンションが煌々と照らされていて、数人のレポーターらしき人とカメラマン、そして近所の方と思しき人達で、人だかりができていた。


 玲奈の言葉をバカバカしい冗談だと全く気にも留めていなかったのだが、本当にそうなってしまうとは……。


 あの中に入っていくなんて絶対にできない。


 姉の家に行くにはもう遅いし。


 困った……、そう心の中で思った瞬間にはもう、みつきさんに電話をかけていた。


「みかげさん、どうかしたのですか?」

 もしもしもなく、はいもなく、いきなり心配そうな、みつきさんの声が返ってきた。


 その声を聞いただけで、気持ちが安心する。


 気持ちが安心、ってなんかおかしいな、そんなことを考える余裕まで出来てきて、みつきさんに今の状況を説明した。


「じゃあ、よかったらうちに来てください」


 単純でこんなに短い言葉なのに、まるで全身を暖かな毛布で包まれたような、そんな気持ちになった。



 コンビニで、替えの下着と歯ブラシを買って、みつきさんのマンションに向かった。


 三度目の訪問で道は覚えている。


 川沿いの道を吹き抜ける風が気持ちいい。


 そんなことを感じる余裕も玄関ホールに入った頃にはすっかり消えていた。


 夜みつきさんに呼ばれて部屋に行く。


 なんて甘美なシュチュエーションなんだ。


 間違えないよう慎重に、みつきさんの部屋番号を入力した後、【呼】ボタンを押した。


 すぐに「はーい」という声が返ってきて、「カチャン」という電子錠の開く音がした。


 こんな夜遅くに女の子のいるマンションに入って行くなんて、なんとなく自分がモテる男になったような気がして、一人ニヤケてしまった。


 五階でエレベーターを降り、みつきさんの部屋の前に着くと、呼び鈴を押す前に扉が開いた。


「おかえりなさい」



 おかえりなさい、という言葉を自分に投げ掛けられたのはいつ以来だろう。


 小さな頃は、いつ家に帰っても母がいて、「おかえりなさい」を聞いていた。


 母が入退院を繰り返し、その言葉を聞く機会は徐々に減ってゆき、一人住まいを始めてからは、実家に帰った時以外に聞くことはなくなって、母が姉の家で介護を受けるようになってからは全く聞くことがなくなった。


 おかえりなさい、という言葉はこんなにもあたたかく、ほっとする言葉だったんだ。



「ただいま」というのは、なんだか小恥ずかしい気がして「来ちゃいました」と言って玄関をくぐった。


 中に入ると、僕のカバンを手に取って「大変でしたね」と言ってくれるみつきさん。


 なんだこの服は。

 カワイすぎるじゃないか!


 パーカーにショートパンツとソックスがセットになっていて。

 白とパステルピンクのボーダーなのだが、なんだかふわふわモコモコしているぞ。

 アナウサギ? トイプードル? みたいな。


 それをお風呂上りなのだろうか、ほっぺをほんのり赤くした、シャンプーのいい匂いのするみつきさんが着ているのだ。


 これを可愛いと思わない男は絶対に世の中に一人もいないはずだ。


 こんな奥さんが家で待っていてくれたら最高だろうな、そんな妄想が僕の中で膨らんでいった。


「食事は何か取られました?」


「あっ、頂いたケーキを食べちゃったんで、中途半端な感じです」


「あぁ、そうなのですか……。今、あまり食べ物のストックがなくて……。申し訳ないのですが、インスタントラーメンとかでもいいですか?」


「あっ、はい! インスタントラーメン好きなんで!」


「じゃあ、ゆっくりお風呂に浸かってきて下さい。その間に用意しておきますので」


 きちんと整理されている脱衣場、ピカピカに磨かれたお風呂。

 水垢と黒カビだらけの自分の部屋のユニットバスとは大違いだ。


 脱いだ服を脱衣かごに入れ、さっとシャワーを浴びた後、湯船に浸かった。


 普段一人で生活していると、お湯を張るということはほとんどしない。


 だいたい研究に根を詰めて帰ってくると、たいていそのまま眠ってしまい、翌朝シャワーで何とか目を覚まし出勤するというのが、毎日のパターンだった。


 あまりの気持ち良さに眠ってしまいそうになるのを必死に堪え、体を洗うことにした。


 シャンプーとコンディショナーとトリートメントとボディソープ。

 それぞれ一つずつ並べられていて、壁には海面スポンジ? が吊るされている。


 これでみつきさんは、いつも体を……。

 そう思うと、スポンジが何か神聖なもののような気がしてきて。


 俺は小学生か? なんて自分でツッコミを入れながら、そのスポンジを自分に使うことができなくってしまい、手のひらで洗うことにした。


 頭も洗い、「タオルここに掛けておきますね」と扉の取っ手に置いていってくれたタオルで全身を拭いた。


 そして買ってきた下着を身に着けていると、みつきさんが扉の前にやってきた。


 スリガラスだから見えないのは分かっているのだが、なんとなく恥ずかしい。


「あのー、差し出がましいとは思ったのですが……、御影さんがまた来られるかもしれないと思って、買っちゃっていて……、着てみてもらえますか? ちょっと恥ずかしいのですけど……、ここに置いておきますね」


 何が恥ずかしいんだろうと思いつつ「ありがとうございます」と言って、扉を開け手だけを出してそれを取った。


 グレーと白のボーダーだ。

 すごく柔らかくて肌触りが最高に気持ちいい。


 着てみると、パーカーとハーフパンツのセット。


 これって、おそろい? ペアルック……。


 あぁ、確かにちょっとこれは恥ずかしいかも……。

 でも、顔が勝手に笑ってしまうくらい、とても嬉しい。


 おそろいを着たいと思っていてくれたんだ。


 みつきさんは、僕がここに来ることを待っていてくれたんだ。

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