第43話 点滴
ドアを開けるなり、「ゴッ、ジュルジュル、ジュル、カフッ」という音が聞こえた。
母がこちらの方を向き、目に涙をためている。
みつきさんは、母に丸めたガーゼを噛ませ、吸引器で懸命に吐瀉物を吸い出している。
何度も咳き込む母。
今回はみつきさんのおかげで、息は止まらなかったようだが、意識があるだけに辛そうだ。
「お母さん大丈夫? お母さん!」
大丈夫ではないことはわかっているが、そうとしか声をかけられない。
そして大丈夫なはずはないのに、僕のその問いかけにうなずく母。
僕は母の背中を撫でてやることしかできない。
ふと、綾乃の言葉を思い出した。
「もうこれ以上苦しませないでほしい……」
こんな辛そうな母を見ると、やはりこんな試みはすべきではなかったと後悔する。
こんなに苦しい思いをして、その上、癌が治らなければ、人生の最後が苦しみだけで終わってしまう。
こんな無謀なことをしなければ、愛するみんなに囲まれて、静かに、眠るように最後を迎えられたかもしれないのに。
「お母さん、ごめん。ごめんね……」
吸引を終えたみつきさんが、謝る僕の腕を取り、首を横に振った。
僕の耳元で「謝っちゃダメです。謝られると余計不安になってしまうから」と。
確かにそうだ。
治療を受ける側からすると、謝られるということは、謝られるような事をされたという事で、失敗された、もしくは悪い結果になったと考えてしまう。
バカだ、少し考えればわかることなのに。
しかし、つい謝ってしまう程、母はとても苦しそうで。
脈拍も上がり、熱も39度を超えてしまっている。
みつきさんが冷蔵庫の前から僕を呼び、母に聞こえないよう小さな声で話し出した。
「このままでは、危ないかもしれません」
「えっ? 危ないって……」
「はい。脱水と、おそらく低カリウム血症、もしかするとアルカローシスの可能性もあります。なので、今から点滴をしますね」
「点滴って、それが何故ここに?」
「嘔吐される可能性はあるかと思っていたので、友人に頼んで拝借してもらいました」
拝借って……。
これは使えば返せないのだから窃盗だし、もちろん医師の指示なんてないし、その拝借してくれた友人のことが心配になってしまうけど、今そんなことはどうでもいい、とにかく何でもいいから母を助けて欲しい。
「ありがとう。お願いします」
僕がそう言うと、みつきさんは点滴バッグを壁に取り付けてあるライトの柄にぶら下げ、チューブに付いた針をそこに刺し、そのチューブに点滴の液を通らせ、少し溢れたところでそれを止めた。
そしてシリンジポンプのスイッチを一旦止め、延長チューブの先に三又のコネクターを取り付けると、それに点滴から伸びたチューブを連結させた。
「では、始めますね」
「ちょっと待って!」
「えっ?」
「それは、僕が操作するから、やり方を教えて」
これもやはり、僕が実行したことにしておきたい。
「すみません、御影さん。じゃあまずはシリンジポンプのスイッチをもう一度入れて下さい」
僕は指示に従った。
「はい。入れました」
「じゃあ、クランプ、この流量を調節するダイアルを少しずつ緩めていって下さい。私が滴下スピードを計りますので」
僕はチューブの上の方についている丸いギザギザを少しずつ緩めていった。
すると、透明の小さな筒の中で、ぽたりぽたりと薬液が落ちだした。
「もう少し緩めて下さい」
「はい」
薬液の落ちるスピードが徐々に速くなる。
「はい、そこで止めて」
みつきさんは腕時計を見ながら、落ちる回数で流量を計算しているようだ。
「はい、これでオーケーです。じゃああとは氷嚢で出来るだけ熱を取りましょう」
二人手分けをし、首筋の氷嚢を取り換えて、頭、両脇、両股関節部に新しいものを置いた。
気が付くと午前二時三十分になっていて、PAA with sugarの入ったシリンジポンプが停止したので、それをチューブごと取り外し、点滴だけになった。
できることは全てやった。
もう見守ることしかできない。
母は、辛そうに肩を上下させ息をしている。
母を見る。
心電図を見る。
落ちる点滴を見る。
それを何度も繰り返す。
このまま、他に何もすることなく、明日を迎えられればいいのだが。
窓の外が白み始めた。
それに伴い部屋の中も、不均一に明るさを取り戻してゆく。
母の容態はさほど変わらず、痛みと吐き気、そして発熱が続いている。
ただ、当てた氷嚢と制吐剤、追加したモルヒネの皮下注射で、それぞれ少しずつ症状の程度は軽減されてきている。
PAA with sugarの攻撃もピークは過ぎたようで、残存するものが、じわりじわりと攻撃を続けているようだ。
その攻撃先が癌細胞で、母の正常組織ではないことを祈るばかりだ。
悪いなりに母は落ち着いているので、朝の清拭前に、みつきさんを帰すことにした。
「何かあったら、今度こそすぐに連絡して下さいね!」ときつく僕に言い残して、部屋を出て行った。
白衣の天使のみつきさんは、普段のみつきさんよりも確実に怖い。
清拭に来たスタッフには、酷く汚れたシーツを見て驚かれたが、みつきさんと相談して決めていた通り、「吐き下しする夏風邪に罹ってしまったようなので、他の利用者さんにうつらないよう気を付けて下さい」とお願いをした。
「では、一度先生に診てもらいましょうか?」と、この施設を受け持っている先生に連絡しようか問われたが、「母の主治医の先生に、もう指示を頂いているので」と嘘をついた。
スタッフの女性二人で母の体を拭いた後、オムツとパジャマを着替えさせてくれた。
新しくなったシーツの上に横たえられた母は、久しぶりに気持ち良さそうな表情を浮かべた。
朝食に出てきたカボチャのスープを少しだけ飲むことができた。
時々胸を大きく上下させるが、吐いてしまうことはなくなった。
食器を片付けてもらい、しばらくすると、みつきさんが氷の入ったレジ袋を両手で持ち、部屋に入ってきた。
「おはようございます、お母様」そう言うみつきさんに、母は微笑みを浮かべてうなずいた。
二人で氷嚢を新しいものに取り換えてから、玲奈とマシューにメッセージを送った。
【峠を越えたかも。たぶん、もう大丈夫】
するとやっぱり一瞬で、競うように二通のメッセージが帰ってきた【That's great! I'm relieved.】【よかった。 もうちょっとだね】と。
短文だが、今の自分自身の気持ちと重なって、人に言われてはじめて、胸の中の緊張がゆっくりと解けてゆくのがわかった。
母の症状は、緩やかな波のように上がったり下ったりを繰り返しながら少しずつひいてゆき、翌朝「やっぱりちょっと顔が見たくなって」と姉が突然やってきた時には、投与前の母に戻ってくれていた。
・アルカローシス(血液中の酸と塩基との平衡が乱れ、アルカリ側に傾いている状態)
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