第11話 動物園

 ゲートで手渡された園内マップを見ながら、どこに行こうか考えていると、朝比奈さんの視線はもう右前方に見えるキリンにくぎ付けになっていて、誘われるように歩き出している。


 慌てて追いつき「朝比奈さんキリンが好きなんですか?」そう声をかけると、我に返ったように振り向いて「あっ、はい、キリンもゾウもシマウマも。あそこにみんないるみたいなんです!」と言う朝比奈さんの顔は少し紅潮している。


「ホントに動物が好きなんですねぇ」


「はい、子供の頃から。でも母はとても忙しくて、なかなか動物園に来ることは出来なくて、いつも絵本の中の動物園に行っていたんです」


 そう話しているうちにキリンの前に辿り着いた。

 すぐさま柵から体を乗り出してキリンを見上げる朝比奈さん。


「うわぁ、やっぱり大きい」


 柵は二重になっていて、キリンとの距離は少しあるのだが、確かにとっても背が高い。


 すぐ横の売店でエサが売られている。

 僕はそれを購入し、朝比奈さんに差し出した。


「これ、キリンにあげてみて下さい」


「あっ、ありがとうございます!」


 キリンを夢中で見ていた朝比奈さんの顔が更に輝いた。


 植物の茎だろうか、柔らかそうな緑のそれを朝比奈さんがカップからつまんで差し出すと、キリンはすぐさま、その長い首をにゅーっと伸ばしてきて、目の前に大きな顔がやってきた。


「おおーっ」と朝比奈さんが興奮した声を出した時にはもう、大きな大きな舌が伸びてきてエサを巻き取っていった。


「すごい……。見ました? 今の。おっきな舌。」


 いつもの微笑みとは違う、子供のような笑顔。

 この顔を見られただけでも、今日誘ってよかったなと、心の底からそう思った。



 その後も万事この調子で、ゾウの豪快なおしっこと繊維質がそのまま残っている巨大なうんちに目を丸くし、子猿にあげた果物を奪い取った親猿に怒りをあらわにし、ふれあい広場では子供たちに交じって座り込み、ウサギやモルモット、チンチラなんかを撫でまわしていた。


 少し意外だったのは、水生生物館での朝比奈さんの行動。


 時々アザラシが通り抜ける円柱の水槽はとても人気があって、多くの人が取り囲み、今か今かとアザラシが来るのを待っていた。


 あまりにも人が多すぎて、ほとんど見えない状態だったので、あきらめてペンギンコーナーに足を向けようかと思っていると、朝比奈さんは「ちょっと見てきていいですか?」と言い、僕の返事を待たず円柱水槽の方に駆けて行った。


 背の低い子供の上から覗き込むのかと思いきや、人と人の間をスルスルとすり抜けてついには最前列まで進みしゃがみ込んだ。


 上品で、おしとやかで、遠慮深いイメージを持っていたのだが、男の勝手な想像ほど当てにならないものはないのかもしれない。


 三分ほどが経って、ようやくアザラシがやってきた時に朝比奈さんは興奮のあまり立ち上がり、後ろのお父さんに「立ったら子供が見えないよ」と怒られてしまって、頭をかきながら平謝りしていた。



 お昼を少し過ぎて、水生生物館の水槽で泳いでいたアジやイワシを見て朝比奈さんが「おいしそう」と言い出したので、「お寿司を食べに行きましょうか?」と提案をした。


「おっ」と「あっ」が混じったような声を出し振り返った朝比奈さん、その後、我に返ったように、おしとやかさを装ってから「はい」と付け加えた。


 こんなにも愛らしい人だとは思っていなかった。

 予想を遥かに超えている。



 僕は三日前から、どこにご飯を食べに行ったらいいだろうかと必死に考えていた。


 できれば高級レストランに連れて行きたいところだが、マナーなんかもよく知らないし、どういった服装をして行けばよいのかもわからない。


 和洋中、肉がいいのか、魚がいいのか、野菜中心がいいのか。


 よく考えると、朝比奈さんのことを僕はまだ何も知らない。


 デートではないのかもしれないが、初めて二人で食べに行くのに中華はないような。

 一緒に焼肉屋に行く二人は肉体関係があると、よく聞くから焼肉もないか。


 和食やフレンチは敷居が高い気がするし、居酒屋は前回の嫌な記憶があるので行きたくない上に、特別な食事の感じが全くでないだろう。


 イタリアンならなんとか。

 お寿司もいいかも。


 では、具体的にどの店がいいのか。


 まずはインターネットでその地域のランキングを検索し、めぼしいところがあれば、そのお店のホームページに行って調べ検討するを繰り返した。


 清潔感があって、でも肩肘張らずに行けそうなところ。


 取捨選択を繰り返し、ようやく一軒のイタリアンとお寿司屋さんに絞り、当日の雰囲気で決定しようと心に決めてきた。


 そこに、アジやイワシを見た感想で「おいしそう」という朝比奈さんの発言。


 待っていましたとばかり、お寿司に決定となった。



 市場の近くで、その日入ったいいネタを中心に低価格で握ってくれるというお寿司屋さん。


 入るなり「へい、いらっしゃい!」とドラマのような威勢のいい声に迎えられた。


 綺麗な白木のカウンターがあり、ネタが入った冷蔵ケースがその奥に並んでいる。


 左手には水槽があって、アジやヒラメ、タイなどが泳いでいる。


 清潔感のある板前法被を着た大将のやる気満々の表情も相まって、このお店絶対おいしい! と期待感が膨らんだ。


 二人並んで一番奥のカウンターに座り、瓶ビールを頼んだ。


「今日は僕が誘ったんで、なんでも遠慮なく食べて下さいね」


「はい、では――イカをお願いしようかな」


「じゃあ僕もイカをもらおう。二貫ずつ握ってもらって、二人で一つずつ食べましょうか?」


「はい、それならいろんな物を食べられますもんね」


「イカを二貫お願いします」


「ヘイ」と返事をしてくれた大将は、上半身をリズムよく動かしながら作業をはじめ、ものの数十秒で寿司下駄の上に、それぞれ一貫ずつ出してくれた。


「イカに軽く塩をふってますんで、よかったらそのままでどうぞ」そう言いながら、寿司下駄に薄いピンクのショウガを盛ってくれた。


 イカには細かく飾り包丁が入れられ、その上で小さな塩の結晶が光っている、とてもおいしそうだ。


 隣を見ると、朝比奈さんは両手を合わせたまま、目を大きく見開いてお寿司を見つめている。

 そしてじわじわと口角が上がってゆき、僕が「いただきます」と言うと、目を閉じ頭を下げて「いただきます」と。

 そして、満面の笑みを作ってからお寿司を口に入れた。


「おいひい」

 思わず口をついて出た、おいしい。


 そしてその表情は、僕が今まで見てきた中でダントツに最高のおいしい顔だった。


 この笑顔をずっと見ていたい。

 この笑顔を見られるのなら他に何もいらない。

 そんな気持ちが胸の奥から湧き上がってきた。

 だが、すぐに、この笑顔は自分の物にはならない、ということを思い出してしまった。


 手を伸ばせば届くところにあるのに、この笑顔は自分のものではない。


 ここに来るまでに、いつマシューのことを聞こうかとずっと考えていたのだが、楽しい雰囲気を壊すのが嫌で、言い出すことができなかった。


 おいしいものを食べた今が朝比奈さんにとって今日一番の幸せな時間なのかもしれない。

 その邪魔はしたくない。

 だが、もうこれ以上我慢することができない。


「あの……」

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