第82話 御影治也
僕たちの努力がようやく実を結び、生体マウス内でもOKOGEの特異的塩基配列を溶解できるようになった。
投与後の一定期間、体温の上昇をみる以外、重大な副作用は今のところ発現していない。
だが、人への投与は行うにはもう少し経過をみて、更なるデータの蓄積を行わねばならない。
その間、人の口腔内の粘膜細胞を田神製薬のOKOGEに感染している協力者から採取させてもらい、試験管内での抗OKOGE酵素の投与を合わせて行うことにした。
この為、肉体的精神的負担は更に増していった。
「御影さん、少し手を休めて、ご飯にしませんか? お蕎麦と天ぷらだから、できれば温かいうちに」
「う、うん。もうちょっとだけ……」
元々、御影さんは研究に打ち込み出すと、他のことが見えなくなるくらい集中する人だった。
だからこそ、画期的な凄い抗癌剤を作り上げることができた。
でも、今の御影さんは、完全に常軌を逸している。
世界中に広がっているOKOGEによる被害を自分の責任だと感じて。
私のような間違った選択をした者のことまでを背負ってしまって。
なんとかしないと……。
「そんなことを言わないで、一緒に食べましょうよ。今日スーパーでタケノコの水煮を見つけたから、それも天ぷらにしてみたのです。ワカサギも美味しそうですよ。ねぇ、御影さん!」
「わ、わかったよ。あっ、そう言えば……、みつきさん、スーパーとか大丈夫なの?」
「はい! 大丈夫です。この辺りはOKOGEのことをちゃんと理解されている方が多いから、感染者への風当たりはそんなに強くないですよ。私は治療者カードも持っているし。このジャガイモは美味しいよ、とか、日本のお醤油が入っていたわよ、とか、いろんな人が優しく教えてくれます。沢山の人が御影さんのことを知っていて、みんな御影さんが頑張ってくれていることを知っているのです。おかげで私にまで優しくしてくれる。だから私のことは心配しなくて大丈夫です。それよりもう少し、御影さん自身のことを気に掛けて下さい。御影さんが倒れてしまったら、大変なことになってしまう」
「大丈夫だよ。マシューも玲奈もいるし、CDCのみんながちゃんと完成させてくれるさ」
「そんなことじゃなくて……。もし御影さんが倒れたりしたら、私……」
「わかった。わかったから、じゃあ一緒に食べよう」
「はい!」
私はずっと御影さんの優しさに包まれてきた。
そして、ずっと甘えてきた。
これからは、何か少しでも……。
少しでも、御影さんが背負ってしまった肩の荷を下ろしたい。
そうしないと、このままじゃ、きっと御影さんは……。
久しぶりに、姉からのメールが届いた。
【治也君、元気にしていますか?】から始まるメールだった。
父が早くに亡くなって、とても忙く働いていた母、C型肝炎を患っていたために入院しがちだった母。
歳の離れた姉は、姉としてだけではなく、そんな母の代わりとしても僕に沢山の愛情を与えてくれた。
【治也君、元気にしていますか?
きっと忙しくしているとは思ったのですが、どうしても聞きたいことがあって。
実は娘の彩乃に、私が、OKOGEを打たせてしまったのです。
綾乃が「人間二十歳を越えれば老化が始まる、だから今打った方が若い姿でいられるんだって」と頼まれて。
やめた方がいいよと言ったのだけど「体の状態がよくなるって書いてある論文もあるから、大丈夫だよ」と説得されて。
インターネットで売っていたOKOGEを夫には内緒で、私が買ってしまったのです。
それが原因で就職も上手くいかなくて。
でも、あの子「大丈夫。きっと治也おじさんが治す薬を作ってくれるから」と、通信教育のアルバイトをしながら、明るく振舞ってくれてはいるけど、できれば「治也おじさんが、治せるようになるって言ってるよ」と伝えてやりたいのです。とても大変な時に申し訳ないのですが、ご返事を待っています】
今の僕には【必ず、近いうちに完成させるから、心配しなくていいよ】とだけ書き、送り返すのが精一杯だった。
年が離れ、母の代わりをしてくれた姉。
その姉から生まれた彩乃は、僕にとって姪なのだが、妹のような存在でもあった。
母の入院中、僕の世話をするために一緒に住んでくれていた姉が、まだ外が薄暗い早朝にトイレから帰ってくるなり「破水した」と青い顔をしてつぶやいた。
急いで義兄と三人で、僕自身も取り上げてもらった産婦人科医院に駆け込んだ。
先生に「大丈夫ですよ。今日か明日、生まれると思います」と言われたのだが心配で心配で仕方がなかった。
陣痛の周期が短くなると生まれる。
そう聞いた僕は「どう? 痛い? 大丈夫?」と時計の針を見ながら、ずっと姉のそばにいた、痛がる姉のおなかを撫でながら。
姉の痛そうな顔を見るととても悲しくて、でも時計をみるとさっきよりも少し周期が短くなっている、もしかしてもうすぐ生まれる? そんな期待に胸が膨らんだ。
赤ちゃんが生まれる、という高揚感と、もしも姉に何かあったら、という恐怖とに包まれていたのだが、小学生だった僕は、夜には眠ってしまい。
朝、目覚めると、姉が彩乃におっぱいをあげていた。
今まで見てきた姉の中で、一番幸せそうな顔をして。
初めて僕の顔を見て彩乃が笑った時は、こんなにも可愛い生きものが世の中にいるのかと驚いた。
姉にせがみ、まだ首の座らない彩乃をお風呂に入れた。
気持ち良さそうに目を細める彩乃、気付くと湯船にウンチが浮いていた。
だが、一緒に入っていた義兄と大笑いしただけで、汚いとはこれぽっちも思わなかった。
初めて彩乃が歩いた時も、なぜか「でんき」と初めての言葉を話した時も姉と一緒に大喜びし、幼稚園の運動会で走っている彩乃を見た時は、あの小さかった彩乃が走っている! と感動した。
僕の顔を見ると、すぐに駆け寄ってきて、満面の笑みで飛びついてくれた彩乃。
その彩乃の命を毎日OKOGEが削っている。
今も、これからも、僕が作ったOKOGEが。
姉のメールには書いていなかったが、治也叔父さんが作ったものなんだから大丈夫だよ、彩乃はきっとそう言ったに違いない。
体の機能が改善され若返るって治也叔父さんの論文に書いてある、そう言ったに違いない。
自分の最も大切な娘を自分の全てともいえる娘を傷付けるOKOGE。
そのOKOGEを作ったのが自分の弟で、姉は誰かを憎むこともできず、きっと自分を責めている。
世界中のOKOGEに感染している人達には、それぞれ愛し愛される人がいて、苦しんでいるのは感染している人だけではなく、その何倍もの人たちがOKOGEによって苦しめられているのだ。
僕がウィルスの遺伝子に手を加え、作り上げてしまったOKOGEに。
以前、彩乃は言っていた。
人は取捨選択され優れた遺伝子を後世に残していく、という自然の摂理があって、その摂理を創ったのが創造の神なのだとしたら、医学は神に反する行為だよね、と。
それを行う医学者も神が創った人なのだから、神様の意に反して頑張ったところで、勝てるのだろうか、と。
医学者たちは、目の前で苦しむ人を助けようと、世界中で沢山の人を苦しめている病気というものを治そうと、必死に頑張ってきた、たとえそれが神の意志に反する行為だとしても。
そのおかげで、病気による苦しみは大幅に減り、平均寿命が延びて、人は増え続け、人類が地球を埋め尽くしている。
地表は人が造ったもので溢れ、森や山が削られて、水や大気までもが汚されていく。
そして、今、僕を含む医学者たちは神が生物に与えた最も根幹のシステムである遺伝子に挑みだした。
それはやはり、神の意志に反する行為の最たるものなのかもしれない。
彩乃が言っていた「ドエスで凄く残忍な神」がいるのだとしたら。
だが獏は、その神がいようがいまいが、自分が手を加えてしまった遺伝子を、それによって苦しめられている世界中の人々を、彩乃を、みつきさんを、治したい。
どうしても治したいのだ。
そして、その後に……。
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