第80話 罰

「おかえりなさい」


 この言葉には魔法の力が込められているのではないだろうか。



 全身全霊をかけて努力をし、それでも事態を改善することはできていない。


 毎日、自分のせいで多くの人が死んでゆき。


 焦っても焦っても、どんなに頑張っても、それを止める事ができない。


 だがそれは、絶対に果たさなければならない責務なのだ。


 そんな思いに圧し潰されそうになりながら家に辿り着くと、部屋には明かりが灯されていて、鍵穴に鍵を差し込む前に玄関のドアが開いて、その中から、部屋の温かさと、おいしそうな匂いを引き連れて、みつきさんの「おかえりなさい」が出てきてくれた。


 その瞬間に、こわばっていた緊張が解きほぐされ、胸の中に太陽の光が当たったような、全身が陽だまりの中に入ったような、そんな感覚に包み込まれた。



 つるつるに磨き上げられたバスタブに浸かり、全身を洗い流すと、明日もまたがんばろう、そう思うことができた。


 清潔なパジャマを身に着けて、頭をタオルで拭きながら食卓に向かう。


 テーブルにつくとすぐに、冷やされて白くなったコップが目の前に置かれ「お疲れさまでした」と、みつきさんがビールを注いでくれた、ずっと頭の中に出てきていた、みつきさんのあの笑顔で。


 箸置き、お箸、小皿と置かれ、小鉢に入ったタコとキュウリの酢の物と、白菜の漬物が並べられた。


「これ、もしかしてぬか漬け?」


「はい、昨日漬けたばかりだから、まだ浅いかもしれないけど。ビールのおつまみにでもしてみて下さい」


 そう言って、みつきさんはまたキッチンに戻っていった。



 ビールを飲みながら、白菜を食べてみる「うまい」とても懐かしい味がする。

 丸くて優しい味、田舎の風景を思い出す、そんな味がした。


 キッチンからは、何か香ばしい匂いが漂ってきて、つやつやのご飯と、いろんな具がお椀から顔を出している豚汁と、そして銀鱈の西京焼きがお盆に載せられやってきた。


 うちのハウスキーパーはご飯も一緒に食べることになっている。


 エプロンを外したみつきさんが目の前の椅子に座った。


 僕のコップを手渡して「まあ一杯どうぞ」とビールを注いだ。


 みつきさんは「ありがとうございます、いただきます」そう言って急いでそれを飲み干すと「お待たせしました、ではあらためて、いただきます」と手を合わせ、両方の口角を上げ、にっこりと微笑んだ。


 お茶碗によそわれたつやつやのお米。


 その輝きに誘われて、ご飯だけを一口、口の中に入れた。


 アツアツで、しっとりとしていて、ふっくらしている米粒が、噛むとそれがもちもち感に変わっていく。


 ほんのりとした甘みと酸味、そして柔らかなご飯の香りが口の中に広がっていく、これはもう間違いなく日本のお米だ。


 独特のテカリを持つ西京焼きを箸で小さく切り取って口の中へ、続けてご飯をもう一口。


 箸にこびりつくような甘めの味噌と銀鱈の脂分が溶け合った濃厚な旨味と味噌の香りがご飯と混然一体となり、飲み込んでいないのに、口の中で溶けてなくなっていく。


 箸休めに酢の物を食べると、何度もおかわりをしてしまいそうだ。


 豚汁には、大根、ニンジン、玉ねぎ、ゴボウ、サツマイモまで入っていて、これだけを出されても十分満足な一品だ。


 気が付くと、みつきさんの箸が止まっている。


「どうしたの? 食べないの? すっごくおいしいよ」


「御影さんおいしい顔をまた見ることができてよかったなと、ちょっと浸っていました」


 みつきさんはそう言って、微笑を湛えたまま再び箸を動かし始めた。


 食べる程に、身体の中が温まってゆく。


 お腹の中だけではなく、胸も頭も全身が満たされてゆく。


 こんなに幸せでいいのだろうか。


 今も、この時も、数えきれないほどの、人の命が削られ続け。


 そのすべての元凶が、こんなにも幸せで、満たされていて、本当にいいのだろうか、僕はあたたかい豚汁を食べながらふとそう思った。



 だが神様は、それに見合う罰をちゃんと用意していた。




 みつきさんが作ってくれたおいしいご飯と、みつきさんと一緒にいれる喜びを、じっくりと噛みしめた。


 その後味が残っているところに、みつきさんがほうじ茶を出してくれた。


「子供の頃、この苦すぎないほうじ茶が好きだったんだ」


「そうだったんですか。買ってきてよかった。じゃあちょっと、洗い物を片付けてきますね」


 そう言って、みつきさんはキッチンの方に戻っていった。


 ほうじ茶を口に含んだ。


 熱すぎず、でもとてもあたたかい。


 味も香りも優しくて、ほっとさせてくれる。


 でもこれを飲み終えて、洗い物が終わってしまったら、きっとみつきさんは帰ってしまう。


 僕は飲んでいた湯呑みをテーブルに置いた。


 キッチンの方から、ジャーという水の音、カチャカチャと食器の当たる音がする。


 僕は足音を忍ばせて、そっとみつきさんに近付いていった。


 食器に付いた泡を洗い流しているみつきさんは、僕に全く気付いていない。


 僕はそんなみつきさんを後ろからそおっと抱きしめた。


 みつきさんは「あっ」と「えっ」が混じった声を出し、体をびくっと震わせた。


「もう、びっくりするじゃないですか。どうしたのですか、御影さん」


 そう言いながら、みつきさんは濡れた手をタオルで拭いて、僕の方にくるっとひっくり返り、僕の背仲に両手を回して、ぎゅっとひっついてくれた。


 忘れかけていた人のあたたかさと女性の柔らかさ、そしてみつきさんの匂いが、全部が一緒になってやってきた。


「洗い物が終わったら、きっと帰ってしまう。だから」


「そうですね……。でもこれからは、御影さんが望んでくれるのなら、いつだって会えますよ」


 僕の胸にひっつけていた顔を上げ、じっと見つめるみつきさん。


 まるで少女のような、澄んだ瞳で。


 少女……。


 そうなんだ、それが唯一の気懸かり……。


 僕は、その気持ちを振り払いたくて、いや、そんなことには関係なく、反射的にキスをしていた。


 柔らかくて、あたたかくて。

 甘く、とろける。


 自分の体の中と、みつきさんの中が繋がっていく。


 それはたった一か所なのに、全身が溶け合って一つになったように。


 でも、キスをやめると二人が離れてしまったように感じてしまい。


 何度も何度も繰り返した。


 壊れてしまいそうなほどお互いを強く抱きしめながら。



 ずっと死ぬまでみつきさんと一緒にいたい。


 その思いが違う言葉になって出て行った。


「ねえみつきさん。みつきさんはOKOGEを打ったりなんかしていないよね」


 返事が返ってこない。


 胸に宿ったその不安は、すぐに、全てをかきむしりたくなる絶望感に、変わっていった。


「ごめんなさい」


「えっ……、ごめんなさい? どうして? どうしてそんなことを……」


 みつきさんは、僕の腕の中で大きく息を吸った。


 そして、

「怖かったから……。御影さんが私の前からいなくなってしまうことが怖かったから……」と。


「そんなこと……。それで、どうして、OKOGEを……」


「御影さんに、好きでいて欲しかったから。少しでも可愛くなりたくて。ちょっとでも若返りたくて。私には玲奈ちゃんに勝てるものが何もなかったから。でも大丈夫ですよ。ちゃんとお薬を飲んでいるし、御影さんには絶対に移しません」


 どうして、どうしてなんだ。

 どうして、そんな風に。


 まるで、いたずらが見つかってしまった子供みたいに。


 屈託のない顔を見せるんだ。


 残りの命が三分の一になるというのに。


 今も、この時も、自分の命が削られているのに。


「みつきさん……」



 犯してしまった罪は、死んでも償うことはできないと分かっていた。


 だが、この罰はひどすぎる。


 みつきさんを抱きしめているこの手で作り出したものが、最愛の人を、一番失いたくないこの人の命を奪っていくなんて。

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